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バトゥ

モンゴル帝国のヨーロッパ遠征を指揮し、ロシアを征服、1241年にワールシュタットの戦いではポーランドなどのキリスト教軍を破った。南ロシアに留まりキプチャク=ハン国を創始した。

 モンゴル帝国チンギス=ハンの長子ジョチの子。オゴタイ=ハンのとき、キプチャク平原から、ロシア、東ヨーロッパに至る大遠征を行った。チンギス=ハンは長子ジョチにイルティシュ河畔を本拠としたウルス(国家)を与え、その西北の広大な草原に領土を拡大する予定であったが、途中でジョチが死んだため、そのやり残した事業を子のバトゥがひきつぐこととなった。同じ時期に、オゴタイ=ハンの子のクチュが南宋遠征を行っており、モンゴル帝国は東西で並行して領土拡大の大遠征軍を派遣していた。

モンゴルのヨーロッパ遠征

 バトゥの率いるモンゴルの遠征軍は、1235年に準備を始め、36年に遠征を開始、ウラル山脈を越えて、まずヴォルガ川中流のトルコ系のヴォルガ=ブルガール王国を征服した。その周辺のキプチャク平原で遊牧活動をしていたトルコ系のキプチャク人を吸収し、15万の大軍を編成し、1237年ロシア中心部に侵入、リャザン、モスクワ、ウラジーミルを次々と陥落させ、1240年、キエフを征服しキエフ公国を滅ぼした。さらに遠征軍を二隊に分け、バトゥの本隊はハンガリーに侵攻、1241年ハンガリー王国のベーラ4世の軍を撃破し首都ブダ=ペストを破壊した。北に向かった一隊はポーランドに侵攻し、同年、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破った。

キプチャク=ハン国の成立

 1242年、バトゥ軍はウィーン近くに迫ったが、オゴタイ=ハンの死去の報により、大ハーン選出のクリルタイ出席のため遠征を中止し、東に向かった。しかし、カラコルムには戻らず、1243年、ヴォルガ下流のサライを都として、キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を作り自立した。第3代グユクと対立、その暗殺にかかわったとも言われる。第4代モンケの選出には協力した。

Episode 「バツ」は○か×か

 モンゴル帝国の歴史上、重要な働きをしたバトゥは、受験世界史でも必須の人名だが、日本ではかつてはバツと表記されていた。それについて、モンゴル研究家の田中克彦氏は、正しくは「バト」と表記すべきで、バトは「堅固な」という意味でモンゴルの男性によく付けられるとして、次のように指摘している。
(引用)しかし教養が無いのはジャーナリストだけではない。ロシア史の専門家たちが、チンギス・ハーンの孫で、ヨーロッパにまで侵攻したバトを「バツ」と書いたために、教科書までそうなってしまったのは、その名がロシア語では Батый と写されるからである。モンゴル語表記 Batu の末尾の母音は著しく弱化したため、こうした弱化母音を、ロシア人は ы の文字で表すならいであったからだ。漢字ではさすがに「抜都」と音訳している。「バツ」となったのをロシア語のせいにしてはならない。ロシア人は弱まった音を ы と、正しく記して、決して「ツ」などと発音していないのに、日本のロシア語をいじくる人が、こうした基本的な音声学の教養がないから、変なふうになってしまったのである。<田中克彦『モンゴル 民族と自由』1992 岩波同時代ライブラリー p.216-217>
 モンゴル語だけでなく、外国語の人名表記は難しい。「バト」が正しいと言われても、現在はほとんど「バトゥ」と表記しているので、入試で「バト」と書いたらバツになってしまうでしょう。「バツ」と書いたら、丸になるのか×になるのか、ややこしい話になってしまいます。
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