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元のベトナム遠征

元のフビライが行った遠征軍の派遣。陳朝の抵抗で失敗する。

 モンゴル帝国は前後3度にわたりベトナム(3)に遠征した。特にフビライ=ハンの時は日本遠征からベトナム遠征に主力を切り替え、大規模な遠征を2回強行したが、いずれも北ベトナム大越国の陳朝によって撃退され、失敗した。 → フビライの遠征活動

第1回ベトナム遠征

 モンケ=ハンは南宋を背後から攻撃するためにフビライを雲南に派遣、大理国を滅ぼした(1253年)。1257年 その作戦の一部としてモンゴル軍が雲南からベトナム北部に侵入した。モンゴル軍はハノイを占領したが、翌年撤退した。
フビライのチャンパ遠征  フビライは即位するとベトナムに使者を送り、陳朝の王を安南国王に封じ、ダルガチ(達魯花赤)を置いて行政を監督する体制をとった。1279年、南宋を滅ぼすと、南海諸国との通商に乗り出し、泉州などに市舶司を置き、また使節をチャンパー(占城)、ジャワ、スマトラ、インドに派遣し入貢を促した。81年、元はチャンパに行省(行中書省)をおいて南方諸国を統括しようとしたが、チャンパ王がそれを拒否したため、討伐軍を派遣し国都ヴィジャヤを攻めたが苦戦に陥った。

第2回ベトナム遠征

 1284年 元はチャンパを討つために陳朝にも出兵を要求したが、陳朝はそれを拒否した。同年、チャンパ遠征軍は暴風に遭い大損害を被った。フビライは陸路チャンパを攻撃するため、陳朝に出兵、ハノイを占領した。元の将軍烏馬児(ウマル)はベトナム軍捕虜を大量に殺害したが、将軍陳国峻に率いられたベトナム軍の抵抗でうけ、撤退した。

第3回ベトナム遠征

 1287年 フビライは前回の失敗に烈火のごとく怒り、日本遠征の計画を中止して、大軍を派遣して陸上海上からベトナムの陳朝を攻撃した。ハノイは陥落し陳王仁宗は逃亡したが、ベトナム軍は元の糧食輸送船を狙ってその輸送路を断ったため、元軍は持ちこたえることができず翌年、撤退した。フビライはベトナム征服をあきらめず、1292年にジャワに遠征軍を送った後、翌年ベトナム再征を計画したが、94年に没したため実施されなかった。<以上、松本高広『ベトナム民族小史』岩波新書 p.68-71>

Episode バクダン川の奇計

「1288年3月、元軍のウマル将軍率いる船団はバクダン江を下る。迎え撃つのはチャン・クォック・トアン(陳国峻)の軍だった。チャン・クォック・トアンはバクダン江での戦闘準備を整えたのち全軍に向かって訴えた。「もし敵を全滅させなければ、ふたたびこの化江(ホアジァン)に帰らないことを誓おう」(化江ほ太平江の支流、タイビン(太平)とハイズオン(海陽)両省の境を流れる重要な川で、ふたたび首都にほもどらないという意味)。・・・4月3日、元軍の艦船が進撃してきたが、満潮を見計らってヴェトナムの小艦艇軍が元軍に挑んだ。元軍の艦船が出てくるの待ってヴエトナム艦艇はさっと逃げ出し、元軍に追跡させるかたちをとった。すると潮が引きはじめ、元の艦船は杭にさえぎられて動けなくなった。そこへチャン軍が突っ込んできた。これに勇気を得たヴエトナム兵は決死の覚悟で敵に向かった。両岸で待ち伏せていたチャン軍も加わり奮戦の末、ついに元軍を破った。艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍兵士多数が水死し、ウマル将軍と大勢の将軍、士官たちが捕虜となった。」<小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 p.87>
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ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配
書籍案内
松本高広『ベトナム民族小史』岩波新書 1969

杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書