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インノケンティウス4世

13世紀のローマ教皇でカルピニをモンゴルに派遣。

 13世紀の教皇権最盛期のローマ教皇の一人。在位1243年~54年。ローマ皇帝フリードリヒ2世(シュタウフェン朝の皇帝でシチリアのパレルモを拠点にイタリア統一を進めようとしていた)と激しく対立し、1245年のリヨン公会議でフリードリヒ2世を破門し、皇帝廃位を決定した。そのため、イタリアはロンバルディア都市同盟など教皇を支持する教皇派(ゲルフ)と、皇帝による統一を支持する皇帝派(ギベリン)が激しく争うこととなった。結局、フリードリヒ2世の死後、南イタリアのシュタウフェン朝勢力はフランスのアンジュー家によって追い出され、教皇派の力は南イタリアに及ぶようになる。

プラノ=カルピニのモンゴル派遣

 また当時、バトゥの率いるモンゴル帝国軍の東ヨーロッパ侵入がキリスト教世界を恐怖に陥れ、1241年のワールシュタットの戦いでポーランドなどのキリスト教軍が敗れたことを受けて、就任の年にフランチェスコ会修道士プラノ=カルピニをモンゴルに派遣し情報を収集することにした。カルピニはカラコルムモンゴル帝国のグユク=ハンに面会し、教皇あて返書を携え帰国した。 → 元代の東西交流

Episode インノケンティウス4世の野望

(引用)インノケンティウス4世は、大望を抱いていた。教会内部では、改革を推進した。外部世界に対しては、中東方面のネストリウス派をはじめとする諸分派やロシア方面の正教会をも取り込んで、キリスト教会の大統一をめざした。・・・対モンゴル政策には、そうした広い意味での「東方政策」と、それによる教皇権力の一層の拡大の思惑が秘められていたのである。・・・インノケンティウス4世は、中世西欧の十字軍時代の終幕を飾る巨人であった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.114>
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第6章3節 ウ.モンゴル時代のユーラシア
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杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書