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フリードリヒ2世

13世紀のシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝。パレルモに生まれ、シチリアを統治し文化を保護した。

 シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝。皇帝在位1220~1250年。ドイツ王を兼ねながらシチリアを拠点にしてイタリア統一をめざし、北イタリアの都市同盟とローマ教皇と激しく対立、結局イタリア統一を実現することはできなかった。
 フリードリヒ1世(赤髭王)の孫に当たり、母がシチリア王女であったのでシチリア島で生まれた。幼時に父が死にローマ教皇インノケンティウス3世を後見人として育つ。成人して1212年にドイツ王、ついで1220年に神聖ローマ皇帝となる。彼は9年間ドイツに滞在しただけで、ほとんどをシチリアの王宮パレルモで過ごす。イタリア名ではフェデリーコ2世という。

シチリアの経営

 このシュタウフェン朝のシチリア王国は、イタリア・ノルマン・ドイツ・ビザンツ・イスラームの要素が混在した国際的な環境があり、彼自身もアラビア語も含め9カ国語に通じ、動物学者でもあり、文芸を保護し、ナポリ大学を創建するなど、開明的な文化人であった。また、シチリア王国は官僚制度が整備され、貨幣制の整備が進むなどの優れた面を持ち、その合理的な政策で彼を「最初の近代的人間」(ブルクハルト)と評価されている。しかし、反面本国ドイツの統治は長子ハインリヒに任せていたので、諸侯を抑えることができず、その分裂傾向はさらに進んだ。また、彼がドイツと南イタリアを支配することに対して、北イタリア諸都市のロンバルディア同盟との対立が続いた。またローマ教皇もフリードリヒ2世のイタリア進出を喜ばず、十字軍の派遣を要請したが彼がなかなか実行に移さないことを理由に、破門にした。

第5回十字軍

 ようやく1228年、第5回十字軍を起こし、アイユーブ朝の内紛に乗じて外交交渉によって翌年、イェルサレムの奪回に成功し、自らイェルサレム王国の王位についた。しかし彼はイェルサレムの経営に関心を持たず、間もなく帰国した。

イタリア都市との戦い

 帰国後破門を解かれたが、1234年に長子のドイツ王ハインリヒがロンバルディア同盟とローマ教皇の後押しを受けて反乱、フリードリヒ2世はそれを鎮圧した後に北イタリアの諸都市を攻撃、1237年11月のコルテノーヴァの戦いで都市連合軍を粉砕した。それに対して教皇インノケンティウス4世から再び破門され、皇帝を廃位される。彼の死後、シュタウフェン朝は衰退し、ローマ皇帝位は大空位時代に入り、1266年にシチリアはフランスのアンジュー伯シャルルに奪取される。

最初の近代的人間

 彼を「最初の近代的人間」と評したのは、19世紀ドイツの文化史学者ブルクハルトである。
(引用)サラセン人(イスラーム教徒)たちのまぢかで、裏切りと危険の中に成長したフリードリヒ2世は、王座に位しながら早くから事物を完全に客観的に判断し処理することに慣れていた最初の近代的人間である。そのうえサラセン諸国家の内部とその行政に関するきわめて詳しい知識と、教皇たちを相手の存亡をかけた戦争が、これに拍車をかけた。その戦争たるや、双方をして、あらんかぎりの力と手段を戦場に持ち出させたものであった。<ブルクハルト・柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』1860 上 中公文庫版 1974 p.9>

Episode 人体解剖を試み、動物園をつくる

(引用)フェデリーコ(フリードリヒ2世のイタリアでの呼び方)自身は文学や美術よりも科学が好きだったようだ。・・・科学という点ではヨーロッパよりイスラム世界の方が遙かに進んでいたから、彼はますます異教文化に深入りすることとなり、それが教皇派の反感をいっそうそそった。この時代のイタリアを覆っていた神秘主義的な思考や感情に、彼ほど無縁な人はなく、超自然的な奇蹟や霊験などは頭から信じていなかったようだ。人間の生得の言語というものがあるのかどうか、あるとすればそれは何語なのかを調べるために、数百人の新生児を大きな部屋に集めて養育し、その世話をする人々にはいっさい言葉を使用することを禁止したという有名な話がある。その実験がどういう結果をもたらしたかはよくわからないが、もしこれが事実であったとすると、フェデリーコはレオナルド・ダ・ヴィンチに数世紀先立つ実験精神の持ち主だったことになる。人体解剖にも経験があったらしく、解剖学の細かい知識を披瀝してアラブの医者を瞠目させたし、動物学研究は本格的で、駱駝や麒麟を含む多種の動物を自分の手で飼育し、宮廷の庭の一部を小動物園と化し、遠征にも動物たちを伴った。・・・こんなフェデリーコを教皇は「神を信じぬもの」と決めつけ、反キリストと罵った。・・・<藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 中公新書 第四話 p.100-101 参照>

Episode アラブの見たフリードリヒ2世

 1229年2月、アイユーブ朝の内紛に乗じてアイユーブ朝からイェルサレムの支配権を取り返したフリードリヒ2世は、聖地に入城を果たした。その時、スルタンのアル=カーミルと共に彼を案内したムスリムのガーディ(法学者)の記録には次のように記されている。
(引用)フランク(アラブは十字軍をこう呼んだ)の王である皇帝がエルサレムを訪れたとき、私はアル=カーミルの要請により、彼と行動を共にした。いっしょにハラム・アル=シャリーフ(聖域)に入ると、彼はまず小モスクを一巡する。次いでアル=アクサのモスクに行くと、彼はその建築美をほめ、「岩のドーム」でも同様だった。彼は説経壇の美に打たれ、階段を頂上まで登った。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.347>
 そのとき、キリスト教の聖書を持ってモスクに入ろうとした司祭に激怒してどなりつけている。そして、ドームの入り口にかかっている金網を見て、何のためかと尋ね、「小鳥たちが入るのを防ぐためです」と答えると、彼は「そして神はブタどもが入ることを許したわけですか!」とキリスト教徒を当てこする一言を発し、聞くものを唖然とさせた。このやりとりから観察者は彼が無神論者だったのでは、と感じた。
 フリードリヒ2世を近くから見た人は、「赤毛で頭は禿げ、近視であり、もし奴隷だったらディルハム銀貨で二百枚ほどの価値もないだろう」と証言している。<同上 p.348>
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ノートの参照
第6章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧
書籍案内

ブルクハルト/柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』上
1860 中公文庫(1974)

藤沢道郎
『物語イタリアの歴史』
1991 中公新書