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クルド人/クルディスタン

西アジアのトルコ、イラン、イラク、アルメニアにまたがって居住する民族。一時独立を実現したが、第一次世界大戦後、ふたたび分割され、現在も民族国家を実現できないでイル。

 クルド人はトルコ、イラン、イラク、アルメニアの国境の接する山岳地帯(クルディスタンと呼ばれる約40万平方km)に居住する民族で、人口は約2千数百万と推定されている。インド=ヨーロッパ語族のペルシア語系に近く、宗教ではイスラーム教のスンニ派が大半(3分の2)を占め、少数がシーア派(3分の1)である。中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人につぐ大きな民族であるが、国家を持たない最大の民族となっている。なお、12世紀にアイユーブ朝を建て、第3回十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)はクルド人であった。

イスラーム世界のクルド人

 クルド人は、黒い上着にゆるやかなズボンをはき、きっちりとまいた幅広の帯に大きな柄の短刀をさして、巧みに馬をのりこなす勇猛果敢な民族というのが一般的なイメージであろう。
 ウマイヤ朝・アッバース朝などのアラブ人イスラーム政権はしばしばクルド人の反乱に悩まされたが、これらの戦いの間にクルド人のイスラーム化が徐々に進行した。そしてアッバース朝の分裂に乗じて、950年頃にはイランの北西部にシャッダード朝、ついで960年ごろにハサナワイヒ朝を樹立し、さらに980年代にはモスルを中心とするジャジーラ地方にマルワーン朝(983~1085)を建てて自立した。しかし、マルワーン朝がセルジューク朝によって滅ぼされてからは周辺の諸国に翻弄され、今日にに至るまで独立の国家を持つことはできない状態が続いた。十字軍の時代にはセルジューク朝の軍隊に採用され、イクター(分与地)を与えられてそこからの税収によって生活するものもあった。サラーフ=アッディーン(サラディン)の父は、地方統治をになう代官職に抜擢された。また叔父のシールクーフはザンギー朝のヌールアッディーンに仕えてファーティマ朝エジプトに侵攻して功績を挙げた。<佐藤次高『イスラームの英雄サラディン』1993 講談社選書メティエ p.24>

独立一転して否認される

 近代では多くがオスマン帝国領内に居住したが、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北した際、セーヴル条約ではクルディスタンの独立が承認された。しかし、オスマン帝国を倒して成立したトルコ共和国が反発して、1923年に新たな講和条約としてローザンヌ条約が締結されると、一転してクルディスタンの独立は否認された。

イラクのクルド人問題

 クルド人は結局独立が認められず、トルコ共和国・イラク・アルメニアなどに分割された。クルド人の独立運動は1925年頃から主にトルコ領で起こり、さらにイラク領にも及んでいった。しかしイラク王国では北西部のモースル、キルクークの油田地帯がクルド人地域なので、独立運動は厳しく抑えられた。
 第二次世界大戦後、イラク共和国となってからものサダム=フセイン政権のもとで化学兵器によるクルド人の大量殺害の疑いがもたれている。クルド人の独立は、トルコ、イラン、イラク三国の利害が絡むだけに困難が予想されている。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.64 などによる>

出題

 01年 センターテスト世界史B本テスト (第1次世界大戦後にオスマン帝国の領域に)国境線が引かれる過程で、多くの民族問題が生まれた。トルコやイラクなどの国境線で分断されたクルド人の問題はその一例である。
問 下線部の問題の発生について述べた次の文の空欄( a )と( b )に入れる条約の名をあげよ。(一部改訂。選択肢省略。)
1920年に、敗戦国オスマン帝国が連合国と結んだ( a )は、領土の大幅削減のほか、アナトリア東部のクルド人への自治権付与を認めていた。しかし、帝国滅亡⑤の1923年に、トルコ新政府が独立を確保するために連合国と結んだ( b )は、クルド人の自治権には触れていなかった。
 解答 
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ノートの参照
第15章3節 ウ.第三世界における強権支配の後退
書籍案内

佐藤次高
『イスラームの英雄サラディン』
1993 講談社学術文庫