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ファーティマ朝

10世紀初めチュニジアに起こり、エジプトを征服したイスラーム国家。実質的な支配権を持った最初のシーア派国家。スンナ派国家のセルジューク朝と西アジアで激しく争った。

 はじめ、北アフリカ・マグリブ地方のチュニジアに起こったイスラーム王朝で、シーア派の分派であるイスマーイール派を信奉した。909年、初代ウバイドゥッラー(アブドッラー)は、ムハンマドの娘ファーティマとその夫アリーの子孫と称し、チュニジアで挙兵して北アフリカを支配し、910年カリフを自称し、スンナ派のアッバース朝と対立した。
 人種的にはアラブ化したベルベル人やギリシア人など多彩な構成であったようである。

カイロの建設

 969年エジプトを征服したファーティマ朝は、カイロを建設し、973年に都とした。さらにアラビア半島ヒジャーズ地方にも進出し、西の後ウマイヤ朝、東のアッバース朝とともに三カリフ時代を形成した。都のカイロには972年にモスク付属のマドラサとしてアズハル学院を設立して、シーア派のイスラーム神学・法学研究の中心地となった。

十字軍との戦い

 11世紀前半の第8代ムスタンシルの時代は国力も充実していたが、後半に入るとシリアをトルコ人のスンナ派政権セルジューク朝に奪われ、後退した。11世紀末にはセルジューク朝の分裂に乗じてイェルサレムを占領したが、折りから聖地回復を掲げて侵攻してきた第1回十字軍と戦い、その占領を許した。

滅亡へ

 12世紀中頃、ファーティマ朝のカリフの形骸化が進む中、十字軍が建設したイェルサレム王国のキリスト教勢力は、ナイル流域への進出をはかり、たびたび出兵した。それに対して十字軍と戦う力を失っていたファーティマ朝は、シリアを統一してダマスクスを拠点としたスンナ派政権ザンギー朝のヌールッディーンに支援を要請した。ザンギー朝はクルド人の部将シールクーフを派遣し、イェルサレム王国軍と戦ってエジプトを救った。その功績により、ファーティマ朝カリフはシールクーフを宰相に任命した。そのシールクーフに従ってエジプト遠征軍に加わっていたサラーフ=アッディーンは、アレクサンドリアで十字軍を破るなど、実績を上げた。
 1169年、シールクーフが急死し、サラーフ=アッディーンが宰相に任命されると、ザンギー朝のヌールアッディーンはしきりにファーティマ朝にシーア派に代わりスンナ派の儀式を押しつけるなどの圧力を加えてきた。そのため両者の対立は次第に深刻となった。1171年にカリフのアル=アーディドは継嗣のないまま病没してファーティマ朝は滅亡、サラーフ=アッディーンがエジプトに独自の政権アイユーブ朝を樹立することとなった。

イスマーイール派の衰退

 ファーティマ朝が滅亡したことは、新たな覇者となったサラーフ=アッディーンはスンナ派であったからシーア派のイスマーイール派の最盛期が終わったことを意味していた。イスマーイール派のファーティマ朝はアリーとファーティマというムハンマドに最も近い血を引いており、もっとも理想的な統治者であったので、10世紀後半から11世紀にかけてはイスラーム世界の強い影響を持ったが、その後のイマームは単なる権力支配にとどまり、宗教指導者として統治力を持たなかった。イスマーイール派の衰退はこの矛盾に要因がある。かわってシーア派の主流となったのが十二イマーム派であり、イスマーイール派は再び主導権を握ることは無かった。<小杉泰『イスラーム帝国とジハード』2016 講談社学術文庫 p.269>
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