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キリスト紀元/西暦

イエス=キリスト生誕年を基準として年代を数える西暦の紀年法。525年に考案され、10世紀ごろにヨーロッパで普及し、現在はキリスト教圏にとどまらず、イスラム圏を除きほぼ世界共通の紀年法とされている。

キリスト紀元に関して、知っておくべきこと

 西暦=キリスト紀元の紀年法は、現在私たちが日常的に使用し、国際社会にも認知され、また世界史を記述する際の共通の物差しとして用いられている、たいへん便利な紀年法である。しかし、世界史学習では、どのようにキリスト紀元がつくられたのか、なぜ事実上の世界共通紀年法とされるのかなど、考えて見る必要がある。その成立過程で知っておくべき幾つかの点があるのでまとめておこう。
  • その始まりはイエス時代ではなく、かなり遅かったこと。 キリスト紀元は、キリストの生誕年を基準にした紀年法であるが、考案されたのはイエスの時代ではなく、6世紀まで降った時期であった。それはムハンマド時代に始まるイスラーム圏のヒジュラ暦と異なる点である。しかも、それが西ヨーロッパで広く用いられるようになったのも、ようやく10世紀ごろのころである。それ以前には別の紀年法が用いられていたことにまず注意しよう。
  • キリスト紀元元年の意味に注意すること。 イエス=キリスト生誕の年を基準とすることは、6世紀の教父ディオニシウス=エクシグウス(小ディオニシウスともいう)によって提唱された。一般にキリスト紀元はイエスが生誕したとされる年を紀元元年とするとされているが、ディオニシウスが提唱したキリスト紀元は、厳密にはイエスの生誕年とされた年を基準とし、その翌年を1年として数えたものであった。また、現在では、キリスト紀元は「主の年」を意味するラテン語、anno domini の省略形である A.D. であらわしている。
  • 実際のイエス生誕年とはずれがあること。 ディオニシウスが基準としたイエスの生誕年は歴史的事実として探求されたわけではない。それは復活祭(年によって異なる移動記念日)を設定する必要から、聖書の解釈などをもとにして設定されたものであって、もとより正確なイエス生誕の年は判らない。現在では歴史的事実としてのイエスの生誕年は、紀元前4年までのそれに近いいずれかの年、とされていて、キリスト紀元とは一致しない。そもそも事実に基づいて設定された年代ではないので、それを改めようという動きはまったくない。
  • 紀元前という概念も後につくられたものであること。 キリスト紀元以前をどう数えるか、についてもディオニシウスはまったく想定していなかった。必要があれば、天地創造紀年や殉教紀年などが用いられていた。紀元前=B.C.(Befor Chlist) として遡って数える紀年法が提唱されたのは、さらにずっと後の17世紀になってペタヴィウスという人物が考案したものである。その時、紀元元年の前年は「前1年=1B.C.」とされた。
  • キリスト教紀元=西暦の広がり。 現在は、西暦が紀元後と紀元前をあわせてひろく用いられている。かつては文明圏、国家ごとにそれぞれに紀年法があってバラバラだった。キリスト教世界では、カトリックで用いられたグレゴリウス暦をプロテスタント側が長い間否定していたなど、暦法に関して対立があった。しかし、紀年法に関してはキリスト紀元が新旧教会、東西教会の別なく、次第に共通に用いられるようになった。もっともエジプトに残るキリスト教であるコプト教会は現在も、大迫害時代のローマ皇帝の即位年を基準とするディオクレティアヌス紀元(殉教紀元)を用いている。アジア各地にも中国や日本のように独自の紀年法があったが、近代以降のヨーロッパ優位が明確になるなかで、キリスト紀元は宗教的意味合いよりも利便性が重視されて、非キリスト教世界にも広がった。現在ではまったく世俗化した紀年法として、中国においても正式に採用され、事実上世界共通の紀年法となっている。ただし、イスラーム圏では正式には現在も西暦622年を元年とするヒジュラ暦が用いられており、複雑な換算法を必要としている。日本では、1872(明治5)年に太陽暦に転換してから普及したが、明治・大正・昭和の年号が主として用いられ、戦前は皇紀も用いられた。戦後の1974(昭和54)年に元号法が制定された。公文書は元号が原則とされているが日常生活では西暦と和暦が混用されている特異な国である。

キリスト紀元作成の事情

 暦はローマ帝国以来、カエサルが作成したユリウス暦が用いられていたが、起算とされる年はローマ建国年(キリスト紀元の前753年)とする数え方やオリンピアド紀元(ギリシアの古代オリンピア競技会が始まった前776年)の数え方、他に284年を第1年とするディオクレティアヌス紀元、313年を元年とする数え方などが混在して西ローマ帝国滅亡後も用いられていた。6世紀にこれらに代わってキリスト紀元が作られたが、その理由は、カトリック教会の最も重要な祝祭日である復活祭の日を決定するという問題があったからであった。復活祭は移動記念日で、3月21日以後の最初の満月のあとに来る第一日曜日と定められていた(これが定められたのはコンスタンティヌス帝のニケーア公会議であった)ので、教会では毎年の復活祭の日付を計算し、表にしていた。ところが525年にその表もあと6年で尽きるところまできたので、新たに復活祭表を作成することになった。その算定を行ったスキタイ生まれのローマの修道士ディオニシウス=エクシグウスが、キリスト紀元の発案者となった。従来の復活祭表がディオクレティアヌス紀元が用いられていたので、エクシグウスはそキリスト教迫害者の年代を用いるのではなく、主イエス=キリストの体現(誕生)を基準に年を数えるようにしようと提唱し、その翌年を1年とした。
 ディオニシウスは、この新たな年号算定法の基準となる年を「主の体現より(ab incarnatione Domini)」で表していたが、後に「主の年に(anno Domini, A.D.)」という言葉が使われるようになり、こちらのほうが一般化した。ディオニシウスは、イエスの生誕の日を12月25日としてその年の1月1日を始まりとした。

キリスト生誕年の決定

 ディオニシウス=エクシグウスは、イエスの復活が3月25日の日曜日、満30歳の時の出来事であるとした(3月25日はイエスの受胎告知日、天地創造の日とも考えられていた)。また当時、532年間で復活祭の移動が一巡すると知られていた。そこで彼はまず自身の時代で、3月25日の日曜日に復活祭が当たる年を探し、それがディオクレティアヌス紀元の279年であることが判った。その年は復活祭の移動がちょうど一巡した年に当たるはずなので、一巡に要する532年にイエスの生誕年からの数、31を加え、ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年の等式を得、その結果としてキリスト生誕年を決定した。

キリスト紀元元年はどこにおかれたか

 一般的には「欧米諸国ではキリストの降誕の年を紀元元年とし、我国ではこれを西暦という」<広辞苑>とされているが、Wkipedia の「西暦」の説明には、
(引用)”西暦(せいれき)とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。”
とあり、キリスト紀元とはイエスの誕生年か、その翌年か? そのどちらが正しいのか迷うところだ。Wikipedia の出典文献とされるブルゴワン『暦の歴史』(南条郁子訳。創元社「知の再発見双書」)に当たってみると、
(引用)小ディオニシウスはイエスの誕生日を、ローマ建国紀元753年12月25日に置き、年代計算の出発点となるその翌年をA.D.1年、つまり主年1年と記した。<ブルゴワン『暦の歴史』(南条郁子訳。創元社「知の再発見双書」2001 p.66>
とあるが、なぜ翌年としたのか、それ以上の具体的な説明はない。次に同じくWikiで参考文献としてあげられている岡崎勝世『聖書VS世界史』を見ると「ディオニシウスがキリスト紀元の年号を決定した方法は、およそ以下のようなものであったと推定される」として、次のように説明している。
(引用)彼がおこなったのは、歴史的事実の探求ではなかった。まず第一に、イエスの復活が3月25日の日曜日、イエス満30歳のときの出来事であるとする、当時の通年を出発点とした。ついでに言えば、3月25日は当時は極めて重要な日であった。この日はイエスの受胎告知の日であったし、さらに天地創造の日とも考えられていたからである。もう一つの根拠は、532年間で復活祭の移動が一巡するという、当時知られていた事実である。そこでディオニシウスは、まず自分の時代で、3月25日の日曜日に復活祭が当る年を探していく。それは、ディオクレティアヌス紀元の279年に当っていた。この年は、復活祭の移動がちょうど一巡した年に当たるはずである。そこで、一巡に要する532年に、イエスの誕生年からの数、31を加えると、563年となる。こうしてディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年という等式が成り立つ。あとはこの等式を出発点として、他の年号を決定していけばよい。<岡崎勝世『聖書VS世界史』講談社現代新書 1996 p.60>
この説明にも「イエス生誕の翌年をキリスト紀元とした」とは書いていないが、ポイントは「満年齢」で数えている点にありそうだ。数え年でなく、満年齢であれば誕生の翌年を1年と数えることになる。聖書に出てくる人物の年齢は、現在と同じく満年齢が用いられていたらしいから、イエスが満30歳で死んだのなら、産まれたのは31年前になる。
 ディオニシウスは満年齢の数え方で、イエス生誕の翌年を1年=元年と数えたのであろう。そうであれば、「キリスト紀元はイエス生誕の年を基準にして年代を定めた紀年法である」というのは正しいが、「キリスト紀元はイエスの誕生年を元年とした」というのはちょっとした誤解か、早とちりだったわけだ。しかし、現在は「キリスト紀元はイエスの誕生年とされる年である」という理解が一般化しているので、それを敢えて誤りとしてしまうわけにはいかないと思われる。なお、この項は私見を含み、不正確であるかも知れないので、参考にとどめて下さい。より正確な事をご存じの方がおられたら教えていただければ幸いです。

キリスト紀元元年の前年をどう数えるか

 イエス生誕の翌年をキリスト紀元元年としたとすると、ぞの前年、つまりイエス生誕年はどう言うのだろうか。現在なら、“0(ゼロ)歳”という言い方と同じく、“紀元0年”というだろうが、ディオニシウスの6世紀には、ヨーロッパには“ゼロ”の概念は知られていなかったので、もちろんそのような言い方はしなかった。また、現在の私たちが使っている西暦では、キリスト紀元元年の前年は「紀元前1年=1B.C.」というのだが、ディオニシウスの時代にはそうもいわなかった。中世のこの段階では「紀元前=B.C.」という概念はなかったのであり、キリスト以前の年代を数える場合は、依然として「天地創造紀元」や「ローマ建国紀元」などが用いられていたのだ。
 現在の西暦では、紀元前をB.C.として逆算していくことが常識で、私たちの世界史学習でも何の疑問も無く使っているが、私たちが使っているこの「紀元前=B.C.」も、実はずっと後の17世紀に考案され、18世紀ごろから使われるようになったにすぎない。

「紀元前=B.C.」という紀年法の始まり

 6世紀のディオニシウスが考案した「キリスト紀元」もすぐに広く用いられたわけではなかった。8世紀ごろにはヨーロッパキリスト教世界の紀年法としてほぼ定着したが、キリスト教(カトリック)の世界観、歴史観に基づく「普遍史」は、ルネサンス・宗教改革・大航海時代が進行する過程で揺るがざるをえなかった。たとえば、ヨーロッパよりも古い中国の歴史が存在することを知ると、「キリスト教的普遍史」に代わる、「世界史」の新たな時間の物差しが必要になった。そのためには従来の「天地創造紀元」などに代わる紀年法が必要となる。そこで提唱されたのが、17世紀のペタヴィウスというイエズス会員でパリ大学の聖書学者が考え出した「紀元前=B.C.」という紀年法であった。
(引用)今日われわれが普通に使用している「キリスト前(B.C.)」という年号は、ペタヴィウスの創始によるものであり、実は非常に新しい年号なのである。また、彼はキリスト紀元1年の前年を、0(ゼロ)年ではなく、キリスト前1年としている。このような「キリスト前」についての年号算定と表記の仕方も、彼に始まるのである。<岡崎勝世『聖書VS世界史』講談社現代新書 1996 p.191>
 これをディオニシウスの紀元に当てはめると、イエスの誕生年は「紀元前1年」ということになってしまい、おかしいような気がするが、こう解釈するしかなさそうだ。なお、このときキリスト紀元前年が「0(ゼロ)年」ではなく、「前1年」とされたことで、数学(数列)的にはまずいことになった。紀元前と紀元後にまたがる年数の計算をする場合、1年足りなくなってしまう。そのために、現在でも天文学では紀元前1年を0年とし、その前に前1年、前2年と遡らせているという。キリスト紀元にはいろいろ無理がありそうだが、今やこの紀年法がキリスト教を離れて世俗化され、事実上の世界共通紀年法となっているのでそのまま使う他はなさそうだ。

キリスト紀元使用の一般化

 525年に考案されたキリスト紀元はすぐに定着したわけではなかった。まずイングランドの教会で、664年の宗教会議においてディオニシウス=エクシグウスの復活祭表を用いることが決定され、イギリスの教会で定着した。イギリスはいわゆるカロリング=ルネサンスの中心地となり、そのアルクィンなどによってフランスのカール大帝の宮廷で用いられるようになった。カール大帝は勅令に世俗的な紀元と並べて初めてキリスト紀元を用い、その年を「われわれの主イエス=キリストの体現から801年」とした。このようにカール大帝がキリスト紀元を用いたことが大きな普及要因となったが、さらに西ヨーロッパ全域に定着するのはようやく10世紀のことである。しかし、そのころまでローマ以来の紀年法も併用されており、「キリスト前(BC)」という年号は用いられなかった。<岡崎勝世『聖書VS世界史』1996 講談社現代新書 p.58-61>
世界史の物差しとして このキリスト教世界で生まれた紀年法が、「世界史」の物差しとなるに至った経過やその意義については岡崎氏の『聖書VS世界史』および、『世界史とヨーロッパ』(2003 講談社現代新書)に詳しく論じられているので参照して下さい。岡崎氏によれば、「聖書の記述に基づいて書かれた世界史」を「普遍史」と呼び、キリスト紀元もその中から産まれた。しかし、東西交渉の進展や、特にルネサンス、大航海時代での新しい知見にどう対応するかに迫られ、宗教改革の渦中で教皇権威の失墜などのキリスト教世界の動揺が始まったことによって「普遍史」は崩壊した。そして、あらたに「世界史」が構築されていくなかで、キリスト紀元=西暦は宗教的意味合いを無くし、世俗的な紀年法として生き残ることになったと論じている。キリスト紀元が新たな「世界史の物差し」となったと言えるのかもしれない。

「西暦はどうやって決まったか」

 アメリカの歴史家ブアステインの『西暦はどうやって決まったか(大発見⑤)』に、わかりやすくキリスト紀元の説明があるので、長くなるが書き抜いてみよう。
(引用)西暦が使われるようになったのは、イエス・キリストの誕生から何世紀もたってからだった。最初の数百年間、一部のキリスト教徒は「インディクティオ」を用いていた。これは15年周期の単位で、コンスタンティヌス帝が課税のために設けて312年から使われるようになった暦である。また、スペイン紀元(ローマ人によるスペイン征服のあった紀元前38年を起点とし、一年が復活祭から始まる)を採用する者や、キリスト受難(降誕の33年後)から起算する者もいた。西暦(AD)を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長ディオニュシオス・エクシグウス(500年頃~560年)である。彼は、復活祭の正確な日付を予測する方法を探していたのだが、一般に復活祭は春分(当時は3月21日と決められていた)を過ぎた後にくる最初の満月後の日曜日ということになっていた。つまり、西洋のキリスト教界では、復活祭は3月25日から4月25日までのあいだにくるはずであった。復活祭は教会暦にとっていつでも大きな意味をもっていた。すべての移動祝祭日が復活祭をもとに決定されたし、典礼暦も復活祭を起点とするからである。
 しかし、何十年も先の復活祭の日付を計算するのは厄介で、その問題についてはいつまでも論議が絶えなかった。ヨーロッパのキリスト教徒の多くは95年表を用いていたが、教皇ヒラルス(在位461~468年)が別の方法を考案した。新月が同じ日にあらわれる19年周期と、同じ月に週の曜日が同じになる28年周期を組み合わせて、532年周期の復活祭暦をつくったのである。ディオニュシオス・エクシグウスはこの復活祭暦を改訂するさいに、皇帝ディオクレティアヌスが即位した284年を紀元とする従来のやり方に反対した。「キリスト教に対する大迫害者の名を永遠に残す」よりも「主イエス・キリストの降誕の年から起算」したいと思ったのだ。
 考えられる限りの妥協案が提出されたにもかかわらず、復活祭の日付に関するキリスト教界の意見は西と東に分かれていた。しかし、イエスの誕生を起点とするディオニュシウス・エクシグウスのキリスト教暦は、イスラムをのぞいて、非キリスト教世界のほとんどを支配するにいたる。もっともディオニュシウス・エクシグウスは一つだけちょっとした計算違いをした。イエスが誕生した年をローマ建国の753年後と考えたのだが、最近の聖書学者によれば、福音書の記述からも、キリストが生まれたのはヘロデ大王が死ぬ前だったということで意見がほぼ一致しているという。つまり、キリストは「BC」4年以前に産まれているというのであう。
 西暦525年に、ディオニュシウス・エクシグウスは、日付を決める基準として「AD」(Anno Domini「われらが主の年」の意)を採用するよう、教皇に提言した。ディオニュシウス自身は、自身の考案にそれほど感心しなかったらしく、手紙も相変わらず「インディクティオ」の日付を用いていた。ヨーロッパのキリスト教界がディオニュシウス・エクシグウスの復活祭暦をとりいれるにしたがって、イエスの誕生から連続した年を数えるキリスト紀元(AD)が他の方式にとってかわるようになった。尊者ベーダも『イギリス教会史』(731年)でこの「AD」の日付を用いたが、それでも「AD」紀元がヨーロッパの一般人のあいだに定着するのはまだ数世紀もあとのことだった。イエスの誕生からさかのぼって数える「BC」が学者達のあいだで使われるようになったのは、17世紀に入ってからのことである。<D.ブアスティン/鈴木主税・野中邦子訳『西暦はどうやって決まったか(大発見⑤)』集英社文庫 1991 p.96-98>
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ノートの参照
5章1節 エ.ローマ=カトリック教会の成立
書籍案内

ブルゴワン
池上俊一監修・南條郁子訳
『暦の歴史』
2001 創元社・知の再発見双書

岡崎勝世
『聖書VS世界史』
1996 講談社現代新書

岡崎勝世
『世界史とヨーロッパ』
2003 講談社現代新書

D.ブアスティン
/鈴木主税・野中邦子訳
『西暦はどうやって決まったか(大発見⑤)』
集英社文庫 1991