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ディオクレティアヌス帝

3世紀末~4世紀初頭のローマ帝国皇帝で、専制君主政への転換、四分割制などで帝国再編に努め、同時にキリスト教に対する大弾圧を行った。

 ローマ帝国皇帝で、284年に即位(在位305年まで)して、軍人皇帝時代の混乱を収拾し、政治体制をそれまでの元首政(プリンキパトゥス)から専制君主政(ドミナートゥス)に切り替え、「四帝分治制」によって帝国を再建した。また、キリスト教に対する最後の大迫害を行った皇帝としても知られる。
 彼は属州ダルマティア(イタリア半島のアドリア海を隔てた対岸。現在のクロアティア)の解放奴隷の子と言われる。軍人としてとして頭角を現し、執政官、親衛隊指揮官となり、284年に軍隊によって皇帝に推戴された。彼は軍人皇帝時代の混乱を収拾したが、彼自身が典型的な軍人皇帝であった。
 専制君主政に切り替え、自らを神として崇拝を強要したディオクレティアヌスであったが、皇帝位は世襲とせず、20年の統治期間の公約どおり、305年、東西同時に副帝に譲位し、55歳で引退した。

専制君主政と四帝分治制

 ディオクレティアヌス帝は皇帝になると、腐敗したローマを離れ、都を小アジアのニコメディアに移し、帝国を二分割、293年にそれぞれに正副皇帝をおく「四帝分治制(テトラルキア)」を始める。四帝分治と言って決定権、裁決権を持つのはディオクレティアヌス帝だけで、他の三人の皇帝はその代理として統治を分担するだけであるので、独裁政治であった。
 その専制君主政は、東洋的な皇帝崇拝を強要するもので、それを拒否したキリスト教徒に対する最後の大弾圧を行った。その経済統制、物価統制、コロナトゥスによる身分統制などは一定の効果を持ち、3世紀の危機を克服してローマ帝国後期の体制を作り上げ、その滅亡を遅くしたといわれる。

キリスト教の大迫害

 303年、ディオクレティアヌス帝は最後で最大のキリスト教迫害を行った。自らをユピテル神になぞらえ、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要した。またキリスト教の書物は焼却され、教会の財産は没収された。ディオクレティアヌスのキリスト教迫害は、キリスト教徒を捕らえて円形闘技場に引き出し、ライオンに食わせるといった公開処刑だけでなく、そのころ作り始められていた使徒たちの手紙などを集めた聖書の原型となる書物を没収し焼却したことや、教会の財産を没収するなど、信仰の拠り所を無くすことを主眼としたものであった。
 キリスト教徒迫害は、次の東西正帝のうち、特に東の正帝ガレリウスによっても続けられ、エジプトや小アジアで多数の教徒が殉教した。しかし、キリスト教徒の増加を抑えることができなかった西の正帝コンスタンティヌスは、ついに313年ミラノ勅令を発して迫害を中止し、キリスト教の公認に踏み切る。ディオクレティアヌスの大迫害のわずか10年後のことであった。

Episode 奴隷出身のローマ皇帝

 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の一節。
(引用)ディオクレティアヌス帝の治世は、歴代先任帝の誰よりも見事だったのにひきかえ、当人自身の出自は、これまた誰よりも卑賤草莽の生まれだった。才幹と武力という強力な資格が、しばしば貴族という観念的諸特権の壁を打破してきたことは事実だが、さりとてなお自由民と奴隷階層との間には、依然として明確な一線が画されていた。ディオクレティアヌス帝の両親というのは、元老院議員アヌリアス家に仕えた奴隷だったし、また彼自身の名前からしてが、母の旧故郷だったダルマティア属州のある小村、その名前から取られた文字通り無名の姓にしかすぎなかった。だが、父の代になってやっと自由権をえ、まもなく同様条件の人間がよく就く書記職にありついたらしい。が、その息子(ディオクレティアヌス)というのは、ひどく青雲の志に燃えた青年で、好運の託宣でも受けたものか、それとも己の才幹を自覚したものかとにかくそれに動かされて、軍務に将来の夢を賭けることになった。・・・・<ギボン・中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』2 ちくま学芸文庫 p.113>

Episode 皇帝引退しキャベツ作り

 皇帝ディオクレティアヌスは早期に退位し、ダルマチア海岸にあるスポレト(現在のスプリット)でキャベツを栽培した。帝国が市民戦争へとなだれこむさなか、ディオクレティアヌスは友人に「もしわたしの手作りキャベツをお見せすることができるなら」と熱っぽく語ったという。この話は、ローズ『図説世界を変えた50の植物』のキャベツの項にあった。同書に依ると、キャベツは古代ギリシアでも知られ、英語で begetable というのは古代ローマで「育てる」「命を吹きこむ」「活性化する」という意味で使われた vegere に由来する。キャベツがどうしてそんなに人気があったか? 少量のなんの変哲もない黒い種が巨大な野菜になるからだ。その後も温帯気候ならどこでも、どんな土壌でも育ち、栽培にほとんど手間がかからないので世界中で作られている。第一次世界大戦や第二次世界大戦中のイギリスではジャガイモと共にキャベツ生産が推進された。<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 p.22>
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書籍案内

エドワード・ギボン
『ローマ帝国衰亡史』2
中野好夫訳
1997 ちくま学芸文庫