ザクセン人/ザクセン
ゲルマン人の一部で北西ドイツから5世紀ごろブリテン島に移住、アングロ=サクソン諸国を作った。大陸に残った一部はドイツ東南部に勢力を広げ、ザクセン選帝侯国、王国となり、有力な領邦としてドイツ帝国を構成した。
ゲルマン人の一部族。現在のドイツの北西部、エルベ川流域からフリースラント(ドイツからオランダにかけての海岸地帯)に居住していた。その一部は、5~6世紀にゲルマン人の大移動のなかで、アングル人などと共に北海を渡ってブリテン島に移動し、アングロ=サクソン諸国を立てた。サクソン Saxon はザクセン Sachsen の英語表記である。
世界史上の彼らの活動の跡は、イギリスでのアングロ=サクソン諸国と、ドイツのザクセンに残っているが、現在は北西部の北海に面するニーダーザクセン州、中央部エルベ中流のザクセン・アンハルト州、東部(チェコとの国境に接する)のザクセン州の広大な範囲に広がっている。
785年にはカールはザクセン全土にわたるキリスト教を保護し、平和攪乱および異教の風習を厳禁とし、違犯はすべて死刑とするという命令を出した。ザクセンの豪族ヴィドゥキントはたび重なる敗戦で、ゲルマンの神々の力に疑問を感じるようになった頃、カールはキリスト教への改宗の引き換えに講和を申し入れてきた。カールに面会したヴィドゥキントは、カールに手で持つムチでゲルマン人の神の祭壇に祀られていた石を砕くことが出来たら、キリスト教の神を信じよう、と申し出た。そこでカールがムチで石を一撃すると石は見事に割れた。これでヴィドゥキントもついに改宗したのだ伝えられている。<坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書房 p.22-25>
919年、ザクセン大公のハインリヒ1世は東フランク王(ドイツ王)となってザクセン朝を創始した。次のオットーは東方のマジャール人の侵攻をくい止め、キリスト教世界の防衛の功を立てたことから、962年に西ローマ皇帝の称号が与えられ、これが神聖ローマ帝国の始まりとされている。ザクセン朝は1024年に断絶した。
17世紀から18世紀前半にはザクセン選帝侯フリードリヒ=アウグスト1世(強王)はポーランド王を兼ねて全盛期となり、町の中心部にツヴィンガー宮殿が建てられ、巨大な石のドームで知られる聖母教会が建設された。
中世のザクセン選帝侯国の首都ドレスデンはドイツのバロック文化の中心としても栄えた都市であった。第二次世界大戦末期の1945年2月、アメリカ・イギリス両国の空軍によるドレスデン空襲によって多数の犠牲者と共に、ツヴィンガー宮殿などの文化遺産が失われた。
世界史上の彼らの活動の跡は、イギリスでのアングロ=サクソン諸国と、ドイツのザクセンに残っているが、現在は北西部の北海に面するニーダーザクセン州、中央部エルベ中流のザクセン・アンハルト州、東部(チェコとの国境に接する)のザクセン州の広大な範囲に広がっている。
ドイツのザクセン
なおも一部は北西ドイツ(現在のニーダーザクセン州)にとどまっていたが、772年~804年にフランク王国のカール大帝によって征服され、エルベ川西岸一帯はサクソニアといわれるようになり、同時にローマ=カトリックに改宗した。このカール大帝によるザクセン征服戦争はフランク王国の領土の拡大とキリスト教の布教の拡大を同時に行い、ヨーロッパ世界をひろげたという歴史的意義をもっていた。Episode カールの「血の沐浴」
カール大帝のザクセン征服戦争は772年から804年までの約30年にわたる、かなり血なまぐさい戦いだった。戦いの最中の783年頃、ヴェストファーレンの豪族ヴィドゥキントが反乱を起こしたことに怒ったカールは、ヴェーザー川の支流アラー河畔のフェルデンで、捕虜4500人を一日で殺害した。この事件は、後の年代記で「アラー河畔の血の沐浴」と言われた。そう詠んだのはカールの招きでアーヘンの宮殿に滞在していたイングランドの学僧アルクィンだった。アルクインはカールの行いをその汚点とし、カールが温泉好きだったことに引っかけて、「血の沐浴」という血なまぐさい表現をしたのだった。事実、カールはアーヘンの温泉を好んでいた。785年にはカールはザクセン全土にわたるキリスト教を保護し、平和攪乱および異教の風習を厳禁とし、違犯はすべて死刑とするという命令を出した。ザクセンの豪族ヴィドゥキントはたび重なる敗戦で、ゲルマンの神々の力に疑問を感じるようになった頃、カールはキリスト教への改宗の引き換えに講和を申し入れてきた。カールに面会したヴィドゥキントは、カールに手で持つムチでゲルマン人の神の祭壇に祀られていた石を砕くことが出来たら、キリスト教の神を信じよう、と申し出た。そこでカールがムチで石を一撃すると石は見事に割れた。これでヴィドゥキントもついに改宗したのだ伝えられている。<坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』2012 刀水書房 p.22-25>
ドイツのザクセン
9世紀中ごろ、リウドルフィンガー家がザクセン人の諸部族をまとめてザクセン大公といわれるようになった。919年、ザクセン大公のハインリヒ1世は東フランク王(ドイツ王)となってザクセン朝を創始した。次のオットーは東方のマジャール人の侵攻をくい止め、キリスト教世界の防衛の功を立てたことから、962年に西ローマ皇帝の称号が与えられ、これが神聖ローマ帝国の始まりとされている。ザクセン朝は1024年に断絶した。
ザクセン選帝侯国
ドイツ人の東方植民が活発に行われるに伴い、ザクセン大公領もエルベ川中流域に拡大してゆき(現在のザクセン州)、その中心は現在のドイツ東南部のドレスデンを中心とした地域に移っていった。エルベ川中流域のザクセン人の中で有力となったヴェッティン家がザクセン大公として領主となり、ドイツの有力な領邦の一つとなっていった。ザクセン大公は1356年の金印勅書で選帝侯となり、16世紀の宗教改革期にルターを保護したザクセン選帝侯フリードリヒ3世は賢王と称され、1502年にはヴィッテンベルク大学を設立した。またカール5世の神聖ローマ皇帝選挙に協力した。一方でルターを保護し、領内の宗教改革を進めた点では、ドイツのルター派プロテスタント化に重要な役割を果たした。17世紀から18世紀前半にはザクセン選帝侯フリードリヒ=アウグスト1世(強王)はポーランド王を兼ねて全盛期となり、町の中心部にツヴィンガー宮殿が建てられ、巨大な石のドームで知られる聖母教会が建設された。
ドイツの有力諸侯としてのザクセン
ザクセン選帝侯国はその後も有力なドイツの領邦国家の一つとして続き、1806年にはナポレオンによって王国に昇格させられたが、1815年からはドイツ連邦に加わった。1871年にはドイツ帝国を構成した。現在はドイツ連邦共和国のザクセン州となっている。中世のザクセン選帝侯国の首都ドレスデンはドイツのバロック文化の中心としても栄えた都市であった。第二次世界大戦末期の1945年2月、アメリカ・イギリス両国の空軍によるドレスデン空襲によって多数の犠牲者と共に、ツヴィンガー宮殿などの文化遺産が失われた。