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インノケンティウス3世

13世紀、ローマ教皇の全盛期の教皇。神聖ローマ皇帝(ドイツ王)やイギリス王・フランス王を屈服させ、強大な教皇権を実現、「教皇は太陽、皇帝は月」との言葉を残した。

 ローマ=カトリック教会の全盛期のローマ教皇。在位1198~1216年。イノセント3世とも言う。ドイツ国王の選出に干渉し、ローマ教皇による採決権を主張、意のままにならないドイツ王(神聖ローマ皇帝オットー4世)を破門にしてしまった。また、王妃離婚問題からフランスのフィリップ2世を、さらにカンタベリー大司教叙任問題でイギリス王ジョンをそれぞれ破門し、屈服させた。ローマ教皇のもとで、英独仏の君主が破門されたり、意のままに操られる事態となり、教皇権は最高潮に達したと言える。このような事態を示す言葉が、「教皇は太陽、皇帝は月」という彼自身の言葉である。また1202年には第4回十字軍を提唱したが、教皇の意に反しコンスタンティノープルを攻撃するに及んでそれを破門した。南フランスのトゥールーズ地方で盛んになったカタリ派の異端に対しては、アルビジョワ十字軍(1209~1229)を派遣して根絶した。また、徹底した清貧生活を送る修道士のアッシジのフランチェスコの活動を認め、フランチェスコ会修道会という托鉢修道会が盛んになった。

「教皇は太陽、皇帝は月」

 13世紀はじめ、ローマ=カトリック教会のローマ教皇の最盛期を出現させた、インノケンティウス3世が自ら述べた言葉で、ローマ教皇の教皇権と世俗の権力の皇帝権の関係を比喩で述べたもの。ローマ教皇が世俗の皇帝権に優越することを意味しており、叙任権闘争などを通じて強化された教皇権が、頂点に達したことを示している。この言葉は、1215年に開催された中世カトリック教会史上ダイダイのラテラン公会議(第4回)で、教会の組織と教義の確定を行った際に、インノケンティウス3世の自信の演説の中で述べた言葉であった。

神聖ローマ帝国皇帝との争い

 当時、ドイツ・イタリア・ブルグンドのすべてを併せた大帝国であった神聖ローマ帝国のハインリヒ6世が急死し、帝位と王位をホーエンシュタウフェン家とゲルフ家が争い、1198年には二重国王選挙がおこなわれたが、インノケンティウス3世は調停者として裁定を下し、さらに1202年にはドイツ国王の世襲権を否定して、諸侯の選定する国王候補者に対する審査権を要求した。そればかりでなく1204年には世俗国家相互間の争いに上級裁判権の要求を掲げた。
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第5章1節 ケ.教会の権威