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帝国教会政策

オットー1世以来の聖職叙任権などを皇帝が持ち教会を統制する政策。

東フランク王国のザクセン朝の国王オットー1世は、国内の有力諸侯(部族大公ともいわれるフランケンやバイエルンなどの諸部族)の力を抑えるために、教会の力を利用しようとした。彼は教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任し、教会を統制した。聖職者であれば、その地位は世襲されないので、諸侯がその地位を世襲することは出来なくなり、また聖職者は文書の作成などに通じているので、彼らに国家官僚を兼ねさせることによって政府による統治にも利用できた。962年にオットー1世がローマで戴冠して皇帝となると、この帝国教会政策はそのイタリア政策(ローマ皇帝としてイタリアに進出して経営に当たる政策)とともに後のいわゆる神聖ローマ帝国の皇帝にも継承される。

その意味

 この用語は山川出版社『詳説世界史』には取り上げられていないが、11世紀以降、中世ヨーロッパの神聖ローマ皇帝とローマ教皇とのあいだで展開された叙任権闘争、及びその帰結として1122年に締結されたヴォルムス協約の意義を理解する上で重要なものである。ドイツ史の権威である阿部謹也氏の解説をみておこう。
(引用)「自立性の強い諸部族を従えるためにオットーは教会という部族とは関係のない勢力と結び、身近な聖職者を大司教、司教などに任じた。国家行政の主要な部分を聖職者に委ねることによって役職の世襲化を防ぎ、文書に通じた聖職者によって行政の能率が上がり、全国的な規模で行政が可能となるなどの利点があった。これは帝国教会制度と呼ばれ、ザクセン、ザリエル両王朝の基本的政策となった。オットー以下の諸王のこうした政策はそのイタリア政策とも深い関連をもっていた。」<阿部謹也『物語ドイツの歴史』1998 中公新書 p.14>

帝国教会政策の背景

 オットー1世が帝国教会政策を採用した背景には、フランク王国の分裂によって教会自身がその強力な後ろ盾を無くし、教皇の権威も落ちてたびたび不祥事が起こり、聖職者にも聖職売買や妻帯などの腐敗・堕落が始まっていたことがあげられる。また、ゲルマン社会では教会はそれを創設した有力者の私有物であるという観念があり、オットーはそのような伝統的な観念を拡大して聖職叙任権を獲得し、教会の規律を立て直しながらその統制を通じて、諸侯勢力を抑えることを目指したと考えられる。

帝国教会政策の展開と終末

 しかし、11世紀からキリスト教の内部に、クリュニー修道院を中心とした修道院運動が始まり、自らの力で規律の回復をめざすようになると、その中心となった改革派聖職者の間から、帝国教会政策に対する批判が起こってきた。聖職売買の背景にはその任命権が俗人に握られているところにあると考えた彼らは、特に皇帝の聖職叙任権を否定し教会が奪回することを主張するようになった。そこから起こったのが叙任権闘争であり、その最も顕著な対立が1077年の教皇グレゴリウス7世による皇帝ハインリヒ4世の破門と、それに伴う「カノッサの屈辱」の事件であった。この事件の後、同じく改革派教皇のウルバヌス2世は十字軍運動を提唱し、第1回が成功裏に終わったことから教皇の権威が高まり、1122年にヴォルムス協約で皇帝と教皇の妥協が成立、皇帝は帝国教会政策を破棄して、聖職叙任権を基本的には放棄することとなった。
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ノートの参照
第6章1節 カ.分裂するフランク王国
書籍案内

阿部謹也
『物語ドイツの歴史』
1998 中公新書