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諸侯(ヨーロッパ)

中世ヨーロッパ封建社会で国王に次ぐ大封建領主、大貴族をいう。その領地の大小で大領主から小領主までさまざまであるが大領主は独立性も強い。特に神聖ローマ帝国時代のドイツでは諸侯の支配地は領邦といわれ、独立国家なみの力を持っていた。

 英語で諸侯を意味する Princes は、ラテン語の Princips (その単数形が帝政ローマのプリンケプス=「第一人者」)から来た言葉で、領土を持ち、領民から租税を徴収する権利を持つ人を指した。中世ヨーロッパのフランク王国では、国王に次ぐ有力者がブルグンド侯、アキテーヌ侯など7人の諸侯が存在した。神聖ローマ帝国では皇帝(ドイツ王を兼ねる)の下に、バイエルン侯、ザクセン侯など5人の諸侯が存在した。なお、諸侯という用語は、古代中国の周から春秋・戦国時代でも使用される。 → 中国の諸侯
 大きく分ければ彼らは封建社会における領主階級であり、領内の農民を農奴として支配し、不輸不入権領主裁判権を行使した。また彼らの地位は世襲され、大貴族として国王に従いながら、彼自身も家臣=騎士(小貴族)との間で封建的主従関係を結んで従属させた。
 中世においてはキリスト教の教会修道院も領地を持ち、諸侯となった。彼らを「聖界諸侯」といい、「俗界諸侯」と区別するが、その地位が世襲されないだけで違いはほとんどない。

ドイツ諸侯の「領邦」

 諸侯という存在は、中世ヨーロッパのイギリスでもフランスでも見られるが、とくに大きな力を持っていたのがドイツであった。神聖ローマ帝国の皇帝はドイツを兼ねていたが、代々イタリア政策に力を入れたために、ドイツ内では諸侯が自立する傾向が強かった。
 11世紀ごろ、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が叙任権などをめぐって争うようになると、諸侯の中にも教皇党(ゲルフ)皇帝党(ギベリン)に分かれて争うようになり、さらには諸侯からの自立を求める自治都市との紛争が絶えなかった。
(引用)ここで「諸侯」というのは、「公」「伯」「辺境伯」など、諸官職や特権を世襲的にわがものとし、国王の築城特権を侵して城郭をも建設して、この城を中心に自立的な領域支配権を築きつつあった各地の有力貴族諸家門である。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.35>
 1077年のカノッサの屈辱を頂点とする聖職叙任権闘争の帰結として、1122年に神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間で締結されたヴォルムス協約によって、これらのドイツ諸侯の、国王=皇帝に対する自立化、封建領主化が促進された。
 13世紀には約300の諸侯に淘汰され、彼らは領地に対する支配権をさらに強め、このころからその支配地を領邦(ラント)というようになった。1356年の金印勅書では7人の有力諸侯が選帝侯として皇帝を選出する権利を認められた。
 宗教改革の時代になると、諸侯のなかにも新旧両派の対立が生じ、激しい宗教戦争が繰り返されるようになり、ドイツでは領邦教会制がとられており、アウクスブルクの和議で「領主の信仰がその地におこなわれる」原則となった。最終的には三十年戦争の講和時に締結されたウェストファリア条約で、ドイツの諸侯の独立した主権国家として認められることとなった。
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ノートの参照
5章1節 ク.封建社会の成立