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アウクスブルクの和議

1555年、神聖ローマ皇帝フェルディナンドが主催した帝国議会で、プロテスタントの信仰を認めた決定。ただし「領主の宗教がその地に行われる」との原則であり、領邦教会制を成立させた。

 兄のカール5世から、神聖ローマ帝国の実質的支配を任されることになっていた弟フェルディナンドは、1555年、南ドイツ、アウクスブルクに帝国議会を召集し、宗教対立を収束をはかった。その結果、「領主の宗教、その地に行われる」ことを原則にした「アウクスブルクの和議」が成立し、プロテスタントの存在が正式に認められた。これによってルターを異端とするヴォルムス帝国議会でのヴォルムス勅令は効力を失い、ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民はただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則(領邦教会制)となった。したがってプロテスタントが認められたと言っても、領主にとっての選択の自由であり、領民すべてに宗教の自由が実現したのではなかった。またこの場合のプロテスタントとは、ルター派のことをいい、カルヴァン派はまだ想定されていなかった。
 こうして1517年に始まったルターの宗教改革を契機とするドイツの対立は、一応の決着を見た。しかし、信仰の自由が認められなかった農民の不満は残り、ドイツ統一問題とからんで新旧両派の領主間の対立、旧教側に立つ神聖ローマ皇帝と新教諸侯の対立などはその後も続き、ドイツでは1618年に最大の宗教戦争である三十年戦争が勃発する。三十年戦争の講和条約として締結されたウェストファリア条約では、アウクスブルクの和議の原則があらためて確認され、またカルヴァン派の信仰も認められることとなった。

「領主の宗教がその地に行われる」

 1555年のアウクスブルクの和議で成立した、ドイツにおけるキリスト教新旧両派の妥協の原則。ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民はただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則となったことを言っている。なお領主の選択に従えないものは他の領邦に移住することはできた。これによって領主レベルでは信仰の自由が認められたわけであるが、領民は領主の信仰に従わなければならないというこの体制を領邦教会制といっている。
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ノートの参照
8章3節 ア.宗教改革の始まり