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主権国家/主権国家体制

主権国家とは、主権・領土・国民の三要素を持った近代の国家形態。封建社会の解体に伴い、16世紀のイギリス、フランスなどの西ヨーロッパの諸国で形成された。当初は国王が主権を持つ絶対王政の形態をとっていたが、市民革命を経て立憲君主政か共和政に移行し、議会制による民主政治が行われるようになっていく。その過程で、租税などで国家を支える国民の概念と人為的な国境で囲まれた領域である国境が形成された。

封建国家の解体

 中世ヨーロッパの封建社会の上に成立した封建国家は、神聖ローマ帝国イギリス王国フランス王国がそうであったように、皇帝や国王は封建領主の一人にすぎず、国土を統一的に支配していたのではなく、また国境も明確ではなく、互いに入り組んでいた(百年戦争の時のイギリスとフランスの関係を思い出すこと)。ヨーロッパ各国の生産力の向上、生産関係の変化に伴って封建社会が解体するにつれて、封建領主(貴族)は没落し、特に百年戦争やイギリスのバラ戦争によって決定的になった。

主権国家の形成

 16世紀にはイタリア戦争(広義では1494~1559年)によって、領土概念や常備軍の必要が認識されるようになり、特にフランスで王権のもとで統一国家の形成が進んだ。またこの戦争では火砲(鉄砲)の使用が一般化し、騎馬戦術から鉄砲を持つ歩兵による集団戦術に変化するという軍事革命が進行し、封建領主の没落は明確となって各国が常備軍を所持する形態に移行した。イギリスでも16世紀にテューダー朝のもとで国家統合が進んだ。このように各国は国境で区切られた領土を排他的に有し、統一的な国家権力が統治し、官僚や常備軍を持ち、国内の経済活動を保障するとともに国家が体系的な租税を徴収するというしくみをもった国家が主権国家といわれるものである。また16世紀は宗教改革の時代であり、宗教が国家統合の大きな要素であったので、ヨーロッパのこの時期の主権国家間の争いはカトリックとプロテスタントの宗教戦争という側面を持つことになる。

国民意識の成立

 また、中世の封建国家では、領主階級は主従関係に縛られ、農民は荘園に縛られており、国家への帰属意識はほとんど無かったが、封建社会が崩れ主権国家が形成されるとその構成要素として「国民」が意識されるようになる。また経済の発展は荘園や都市の枠を越えた広範囲な市場を生み出すこととなり、ギルドのような閉鎖的な団体は次第に解体され、自由な経済活動を展開する市民であり、統一国家を支える国民があるという自覚を持った人びとが社会の中核を占めるようになっていく。この場合も宗教的な結束が国民意識の重要な要素となった。

主権国家の最初の形態が絶対王政

 しかし、この段階では国家主権は国王・貴族に握られており、国民はまだ主権者とはされていない。16~18世紀段階の主権国家は、主権を国王が持ち、国王に権力が集中する「絶対王政」という政治形態を持っていた(それを正当化するのが王権神授説)。また経済活動も国王が特権的商人と結んで利益を独占する重商主義政策が採られ、自由な商業活動や貿易は行われなかった。
 現在では、主権国家の初期の形態である国王の絶対主義的統治を支えた社会的基盤として、社団(中間団体)の存在が重要であるという指摘が出ている。

市民革命に伴う国民国家形成へ

 イギリスに始まる産業革命で産業資本家(ブルジョワジー)が形成されると、彼等は経済活動の自由と政治的な平等を求めて市民革命を起こす。それによって絶対主義王権が倒されたことによって、国家主権の主体は国民にあることが自覚され、「国民国家」を形成することとなる。「国民国家」の形成を目ざす運動が国民主義(ナショナリズム)であり、「国民」概念が確立した段階が「近代国家」の完成と言うことができる。
 またこの過程で王権神授説に変わる国家理念として、イギリスでは17世紀前半にホッブズ、17世紀後半にロックが現れて社会契約説が説かれるようになり、18世紀フランスのルソーによって人民が主権国家の主権者として位置づけられ、アメリカ独立革命とフランス革命という市民革命によって新たな段階に入っていくこととなる。

主権国家体制

16~17世紀のヨーロッパに成立した、主権国家間の国際関係のあり方を主権国家体制という。現代の国家間の外交関係や国際機関の原型となった。

 16~17世紀までのヨーロッパにおいて、徴税機構を中心とした行政組織と常備軍をもち、明確な国境内の領域を一個の主権者である君主(国王)が一元的に(中央集権体制的に)支配する「主権国家」と、それらの国家間の国際関係が形成されたこという。。
 なお、現代の国家間の外交のあり方、外交官を大使や公使として交換し、常駐させるやり方は、15世紀のイタリアのヴェネツィア共和国にで始まっている。また、国際紛争の解決のために、各国の代表が国際会議を開いて調停し、条約を締結して各国に遵守義務を負わせるという近代的な意味の国際会議は、三十年戦争の際のウェストファリア会議とその成果である1648年のウェストファリア条約が最初とされている。

主権国家体制の成立

 イタリア戦争などの領土獲得のための抗争、海外領土の獲得競争、宗教対立などが複雑に絡み合いながら展開され、イギリス・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルなどが主権国家体制を形成させた。ドイツは全体としての統一は遅れ、三十年戦争の後にプロイセンとオーストリアが分立する。三十年戦争の終結させた、1648年のウェストファリア条約によって、領邦ごとに主権国家化が進んだ。ヨーロッパの主権国家体制は確立した、とされている。
 イタリアの場合は、ヴェネツィアやフィレンツェなどの都市共和国、サヴォイア公国、ミラノ公国、ナポリ王国、シチリア王国などの小国分裂が続いたが、それぞれ主権国家化が進んだ。しかし、外国勢力の支配と干渉を受け続け、イタリア全土の統一、国民国家の出現はドイツと同じように遅れ、最終的には18世紀中頃となる。また東方のロシアは封建勢力が残存しながら、17世紀に主権国家の形成が徐々に進んだ。 → 近代世界システム
 主権国家体制がイタリア戦争の過程で形成されたことについては、次の文がわかりやすく説明している。
(引用)こうして(イタリア戦争の始まった)1494年、フランス王の行軍は近世という「パンドラの箱」を開けてしまった。イタリア半島が国際紛争のアリーナとなり、ルネサンスの成果が北漸するきっかけとなった。それだけではない。イタリア戦争中、戦闘と外交の交錯するなか、ミラノとジェノヴァ、ヴェネツィアとオスマン帝国、そしてスペイン、ネーデルラント、フランス、イングランドと皇帝、教皇庁が相互に外交使節団を駐在させ、その安全を保障し、文書を交わすという慣行が定着した。宗教改革によるキリスト教共同体の崩壊と並行して、大小・強弱・性格の違いはあれ、一定の領域における主権を主張する近世国家のあいだで、ルールを定めて戦争と交渉を繰り返す独特の世界秩序が出現する。研究者が「主権国家体制」あるいは「諸国家系」と呼び慣わすものである。これが国際法として定着するには、ジェンティーリやグロティウスのような法学者、そしてウェストファリア条約を待たなければならないが、国際関係というゲームのルールが人類史上はじめて成立することに意味がある。たとえば東アジアにおける「華夷秩序」「朝貢関係」とは本質的に違うルールが成立したのである。<近藤和彦編『西洋世界の歴史』1999 山川出版社 p.125>

主権国家体制と国際法

 三十年戦争の悲惨な被害が拡大されるなかで発表されたグロティウスの『戦争と平和の法』は、戦争の悲惨さを緩和させるため国際法が必要であることを提唱した。戦争後のウエストファリア講和条約の成立によって、中世ヨーロッパのローマ教皇や神聖ローマ帝国という上位権力が無くなったことによって、近代主権国家は国家間の関係を規律する国際法を生み出した。
(引用)その国際法のもとでは、主権者のおこなう戦争の正・不正を判定する上位者が存在しないことから、主権者のおこなうすべての戦争は国際法上合法と認めざるをえないという無差別戦争観が登場した。17~18世紀の絶対王政の支配したヨーロッパでは、フランスなどの絶対主義国家により領土や人民を獲得するための征服戦争がおこなわれていた。これを違法としてさしとめる上位権力はもはやなかったのである。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.5>
 しかし、18世紀後半のアメリカ独立戦争、フランス革命は絶対王政に対する新興階級である市民の勝利をもたらすと共に戦争観をかえ、あたらしい戦争規則が形成されることになる。戦争は陸戦の場合は傭兵ではなく国民軍がおこない、海戦の場合は私掠船(海賊)でなく軍艦がおこなうべきこととされ、交戦規定や捕虜に対する非人道的な扱いなどで一定の抑制が加えられるべきであることが認められるようになる。 → ハーグ陸戦条約
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書籍案内

近藤和彦編
『西洋世界の歴史』
1999 山川出版社

高澤紀恵
『主権国家体制の成立』
世界史リブレット29
1997 山川出版社