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対抗宗教改革/反宗教改革

宗教改革に対抗する、ローマ=カトリック教会側の改革運動。

 ルターカルヴァンなどの宗教改革によって登場した新教徒=プロテスタントの運動が強大となったことに危機感を持ったローマ教皇側が、プロテスタントを弾圧するだけでなく、カトリックの教皇庁や教会のあり方を改める運動を起こした。そのカトリック改革を「対抗宗教改革」または「反宗教改革」という。かつては「反動宗教改革」という言い方があったが、現在は用いられない。

カトリック教会側の改革運動

 教皇パウルス3世(在位1534~49)は、改革派を枢機卿に任命、まず教会の腐敗の原因として、聖職売買の禁止を勧告した。王妃との離婚を強行したイギリスのヘンリ8世を破門にした。さらに1542年にはローマに宗教裁判所を設置して異端の取り締まりを行った。異端を取り締まり、カトリックの改革を進めるためには、改めてカトリックの正統となる教義の確認をする必要が生じ、そのために1545年からトリエント公会議が始まった。1563年まで断続的に開催され、あらためてルターなどの考えを否定し、さまざまな教会の悪弊を廃止することを決定した。さらに1559年には『禁書目録』を定め、思想統制を強めた。

イエズス会の創設

 また対抗宗教改革の先頭に立って活動したのがイエズス会である。イエズス会は1534年にスペイン人のロヨラザビエルによって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世によって公認され、世界各地に布教のため多くのキリスト教宣教師を派遣した。ザビエルは初めて日本への布教を行い、マテオ=リッチは明代の中国で布教した。しかし、日本での布教は、豊臣秀吉のキリスト教禁教令によって断念し、中国においてもイエズス会の布教方針をめぐって典礼問題がおこり、キリスト教の布教禁止に追いこまれる。
 1555年、ドイツでアウクスブルクの和議が成立、「領主の宗教、その地に行われる」という形でプロテスタントが認められたが、和議を主催したドイツ王フェルディナント1世は、翌1556年に神聖ローマ皇帝となると、ウィーンにイエズス会士をまねき、対抗宗教改革に着手した。その領土であったボヘミアでは依然としてフス派の力が強かったためであった。

改革教皇

 16世紀後半に現れた「改革教皇」と呼ばれるたのは次の三人である。
ピウス5世(1566~72)はドミニコ会出身で典礼の改革に努め、1570年にはローマ教会から分離したイギリスのエリザベス1世を破門した。翌71年にはスペインとヴェネツィアを仲介し、オスマン帝国艦隊をレパントの海戦で破った。
グレゴリウス13世(1572~85)はそれまでのユリウス暦と実際の暦日のズレを修正した「グレゴリウス暦」を制定した(1582年)。サンバルテルミの虐殺事件の報せを聞き、祝賀行列を行わせたとも言われる。日本の天正遣欧使節がはるばるローマに来訪し、教皇に謁見したのはグレゴリウス13世の死の直前、1585年であった。これは、プロテスタントに対抗するカトリックの世界布教戦略の成果と受け取られた。
シクストゥス5世(1585~90)はローマ教皇庁の再編に乗り出し枢機卿の数を70に固定し、教皇の権力を各聖省に振り分けた。<「改革教皇」については『ローマ教皇』創元社・知の再発見双書 p.82>
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書籍案内

F=シオヴァロ・J.ベシェール/後藤淳一訳
『ローマ教皇』
創元社・知の再発見双書