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タークシン王

1767年タイのアユタヤ朝がビルマのコンバウン朝軍の侵攻によって亡びた後、ビルマ軍に抵抗して撃退した救国の英雄とされた。1768年トンブリー朝を建てるも、旧勢力と対立して1782年に殺害され、部下の将軍チャクリーが代わってラタナコーシン朝を建てた。

 タークシン(タクシンとも表記する) Taksin 1734-82 はタイトンブリー朝の王(在位1767-82)。もとはスコータイの西方のタークの領主であって、名前がシンであったので「タークシン」と呼ばれた。トンブリーはチャオプラヤ川下流の現在のバンコクの西岸。中国人(潮州華僑)とタイ人人女性の間に生まれ、中国名を鄭昭といい、アユタヤ朝の大臣の養子となり、トンブリーを治めていた。<以下、柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.76-82 などにより構成>

ビルマ軍を撃退

 ビルマのコンバウン朝の軍隊が侵攻し、1767年4月7日にアユタヤを破壊し占領すると、その救援に向かったが敗れ、チャンタブリーに退却した。タークシンは中国系だったためタイ人と潮州系中国人からなる軍勢を組織して態勢を整え、タイからのビルマ軍の排除を目指して北上し、同年10月にビルマ軍が駐屯していたバンコク(トンブリーの対岸)の要塞を奪還、さらに北上してアユタヤ周辺のビルマ軍を排除することに成功し、1768年12月にトンブリー王として即位した。

タイの領土拡張

 タークシン王は周辺の勢力を併合してかつてのアユタヤ朝の領域を回復し、さらにカンボジアを服従させた。このとき、アンコール=ワットのあるシュムリアップとバッタンバンなどは大量に併合された。また北方でビルマの勢力下にあったタイ系のラーンサー王国・ラーンサン王国に対しては部下のチャオプラヤー=チャクリ兄弟を派遣、1778年までにほぼ平定した。これによって現在のタイの全域にラオス、カンボジアを加えた領域がタイ王の支配下に入った。
 ビルマがタークシン王の勢力拡大を許したのは、一方で乾隆帝の派遣した清軍と戦っていたからだった。タークシン王はその情勢から乾隆帝に朝貢し、その保護を求め、1776年には暹羅シャム国長の鄭昭として承認され、中国を中心とした国際社会の中でタイ(シャム)王として認められた。

救国の英雄、処刑される

 タークシン王はアユタヤ朝時代の領土を回復したが、各地には依然として地方独立政権(タイではムアンという)が残っており、彼らは既得権を持ち、タークシン王に権力が集中するのを望まなかった。改革を目指すタークシンは仏教勢力とも衝突した。彼自身は熱心な仏教徒であったので熱心に修行したが、僧侶に対して跪拝を強要したことから僧侶の反発を受けた。上座部仏教では僧侶の地位は絶対であり、たとえ国王であっても僧侶に跪拝を求めることは許されないとされていたので、タークシン王の行為は「奇行」であるととらえられた。タークシン王も次第に誇大妄想的になり、自分に跪くことを拒否した僧侶をむち打つなどの行いが目立つようになったという。この「タークシン王の奇行」は「精神錯乱に陥り、常軌を逸した」ともされているが、反タークシン勢力にとって王を排除するには十分な理由だった。
 1782年4月6日、宮廷の反タークシン派は王を捕らえベルベットの袋に入れ、白檀の棒で首を折るという王侯のみが受ける処刑を行った。このクーデタの知らせを受け、カンボジアに出征中であった将軍のチャクリは急きょトンブリーに戻り、国王に推戴されラタナコーシン朝が成立した。チャクリ将軍はタークシンの部下として果敢に闘い、人望が高かかった人物であるが、このクーデタには直接手を下していないものの首謀者であったことは間違いない。こうしてトンブリー朝はタークシン王一代わずか15年で終わったが、タークシンは救国の英雄としてバンコクのトンブリー側に銅像が建てられている。<『タイの事典』同朋舎 p.199>
※現代のタイの政治家タクシン(Thaksin Shinawatra)はタークシン王とは全く関係がない。ただ、こちらのタクシンも中国名丘達新で中国系であることは共通している。
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柿崎一郎
『物語タイの歴史』
2007 中公新書