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ラタナコーシン朝/チャクリ朝/バンコク朝

1782年に始まる、現在のタイの王朝。

 タイ(シャム)の現在の王朝。1782年、チャクリ(ラーマ1世)がバンコクを都に開いた王朝で、チャクリ朝またはバンコク朝ともいい、現在まで続いている。14世紀から1767年まで続いたタイ人のアユタヤ朝を再興し、チャオプラヤ川>流域のタイ全土を支配した。当初は征服した周辺の農村共同体の首長たちから朝貢を受けるだけで、明確な領土国家ではなかったが、19世紀にイギリス・フランスなどの侵出にさらされながら、次第に国家形態を整備していった。

タイの開国

1855年、ラーマ4世の時、イギリスとの通商条約(ボーリング条約)を締結し、不平等条約のもとで欧米との自由貿易に門戸を開くこととなった。ラーマ4世は外国人顧問を多数受け入れ、産業の近代化を図った。次のラーマ5世(チュラロンコン大王)は、積極的な近代化政策をとり、同時にイギリスとフランスの両勢力をうまくバランスをとりながら交渉し、東南アジアで唯一、植民地化を免れた。ラーマ5世は偉大な国王として現在でも崇敬されている。イギリスとフランスは、1904年の英仏協商でチャオプラヤ川を協会として東西を勢力圏とすることで妥協した。

タイ立憲革命

 しかし第一次世界大戦後になるとタイにも大きな転機が訪れた。外国との往来が増え、多くの留学生がヨーロッパに行くようになると、絶対王政的な体制に対して不満を持ち、近代的な立憲君主制にすべきであるという運動が起こり、留学帰りの軍人ピブンらによって1932年にタイ立憲革命が起こされ、ラーマ7世もそれを受け入れタイは近代国家に脱却をはかった。近代化を進めたピブンは、1939年には国号をシャムからタイに変え、国民の意識変革を狙った。

開発独裁とクーデターの続発

 ピブンの指導のもとで大戦前後に西欧的議会制民主主義の導入が図られたが、1957年にクーデターによって実権を握ったサリット将軍は「開発」を掲げると共に、「タイ式民主主義」と称して国王の権威を絶対のものとし、政党政治を不安定で共産主義の浸透をもたらすものとして否定して政党政治と議会政治を否定した。その後、タイではクーデターが相次いでいるが、そのつど、現在のプーミポン国王(ラーマ9世)が国王の権威で収拾するという、世界的に珍しい立憲王政の形態が続いている。
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ノートの参照
第8章2節 清代の中国と隣接諸地域