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遠洋航海術

15世紀、羅針盤の利用などで可能になり大航海時代をもたらした。

 中世ヨーロッパの地中海や沿岸航路で使用された船は、ガレー船といって、帆は一本マスト、多くの漕ぎ手を必要とする大型船であった。この船は古くから用いられていたが、大型なので風波にもろく、また多くの漕ぎ手とその食料・飲料水が必要となるので、遠洋航海には不向きであった。すでにインド洋ではイスラーム商人がダウ船という三角帆の帆船を使って遠洋航海を行っていたが、おそらく十字軍時代にそれを知った地中海の船乗りたちの間でも帆船が用いられるようになったと考えられる。しかし、14世紀までは一本マストで船室もない、簡単な構造の物が主流であった。

大型帆船の登場

 15世紀の大航海時代になると、ポルトガルで、船舶形態は大きく変化した。1415年以降、西アフリカ航海に進出したポルトガルは、もっと軽快な小型船を開発したが、それはバルシャ(バルカ)船と呼ばれるもので、大型ボートに帆を張った程度の信じられないような小さな船であった。1440年頃、三本のマストに三角帆を張ったカラベル船があらわれ、遠洋航海の主力となった。これはムスリム商人の用いたダウ船の帆を取り入れた新型船で、これによって風に逆らってでも航行できるようになった。カラベル船を大型化して、長期の航海を可能にしたのがナウ船、さらに大型化されたのが1000トン級のカラック船で、1000人もの乗組員を乗船させることができた。16世紀の中頃から、スペインではガレオン船という3本~4本マストの大型帆船が使われるようになり、スペインのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易で活躍した。

Episode 船の形態革命

 エンリケ航海王子の時代以前は、一本マストと横帆だった船が、15世紀初頭の短い間に三本マストが突如として現れたのは実に驚くべきことである。それはおそらく船の大型化の結果であろう。もう一つの改良が船尾に付ける舵である。元来は船尾に括り付けられた櫂で操船していたが、中世になると舵は軸針などのよって船尾に懸垂され、舵柄で操作されるようになった。これによって船首と船尾の構造が区別され、その形は帆船に継承される。エンリケの初期の船長が用いたバルカ船は、25トン程度で15,6人が乗り、横帆のついた一本の主マストをもち、船尾の三角帆は必要なときだけ装帆された。ジル=エアンネスがボジャドール岬を回航したときはこの様な船だった。1440年頃から“船の形態革命”がたけなわになり、カラベル船が出現した。これはエンリケ時代の開発であることはたしかである。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.332>

航海術の発達

 《地球》に関する知識と同等の重要性を持つのが航海知識であった。「外洋を満足に航海するには次の三つ、即ち針路(コース)を決める地図、《北》の位置を決定する羅針儀(コンパス)、そして太陽または月の位置を捉えて緯度を決定する器具が不可欠である。」1400年頃には既に、これらの装置はかなり有効な物となっていた。地図では少なくとも地中海の海岸線に関しては現在とほとんど変わらない、《ポルトラーノ海図》が作られていた。羅針盤はおそらく2世紀ほど前から知られていたが、1380年頃には下面に北を指す指針の付いた回転する方位牌(カード)を具えた、実質的には今日と同形式のものが出現していた。船位測定にはアストロラーベがギリシア時代から知られており、アラビア人の手を経て地中海の船乗りに継承されていた。アストロラーベは一個の円盤で周縁部に角度が順に刻まれ、中心には回転する棒が取り付けられていて、太陽の高度(仰角)を照準できる。水平線に対する太陽の角度はこうして読み取られ、緯度が産出される。一年の毎日についてそれぞれ異なる太陽の赤緯に基づいて計算された位置表は13世紀の終わりには出来上がっており、1478年ごろアブラハム=ザクート(スペイン系ユダヤ人)が改良した。このザクートはポルトガルに渡り、ヴァスコ=ダ=ガマに協力し、天測実技の訓練を行い、各種の航海暦を調整している。ヴァスコ=ダ=ガマの成功にはこのザクートの協力が大きかった。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.26,327>

Episode 大きかった誤差

 この時代の航海は、アストロラーベという測定器で北極星や太陽の高さを測定して緯度をはかり、羅針盤で方位を定めて進んだ。しかし船の進んだ距離は、綱の先に浮きをつけて海に投げ込み、船の速度をはかって計算したので、誤差が大きかった。<増田義郎『大航海時代』ビジュアル版世界の歴史 講談社1986 などによる>

壊血病の克服

 遠洋航海での最大の困難は、長期にわたる航海によって栄養が偏り、乗組員が壊血病になって死ぬことであった。塩漬けの肉とビスケットだけの食事で、何年間も航海する船員にとって、壊血病は海賊や悪天候よりも恐ろしいものだった。その症状は、まず皮膚に黒っぽい斑点が現れ、歯がガタガタになり脳内出血を起こす。コラーゲンが分解し始め、細胞をつなぎ合わせている結合組織も分解されるようになると末期症状だ。こうなるとたいてい数日で苦しみながら死ぬ。
 この症状は古代ギリシアのヒポクラテスや、十字軍時代の船乗りにも知られ、それが長期の航海を不可能にしていた。ヴァスコ=ダ=ガマの船団もまずこのことに悩まされていたが、どうにかアフリカ東岸に到着したとき、上陸した船員が新鮮なオレンジを食べて健康を回復したことを知った。ダ=ガマは乗組員の半数以上を失ったが、その治療法を学び取った。しかしその知識を口外することはなかったらしい。
 1747年、イギリス海軍ソールズベリー号に軍医として乗り込んだジェームズ=リンドは、壊血病の様々な治療法を検証した。実験台として病気にかかった12名の船乗りを選び、ニンニクやマッシュルーム、ホースラディシュ、リンゴジュース、海水、オレンジ、それにレモンを与えたところ、柑橘類を処方された船乗りたちはほぼ一晩で回復した。リンドは1753年に『壊血病論』を著し、オレンジなどの摂取が壊血病に有効であることを主張したが、それがイギリス海軍にひろく採用されるまでには時間がかかった。
 1769年にエンデヴァー号でニュージーランドの北島と南島の間に到達し、その海峡にクック海峡という名を残すことになったジェームズ=クックは、ジェームズ=リンドの説に随い、乗員に柑橘類とサワークラウト(キャベツの酢漬け)を与えていた。全員が帰還したわけではなかったが、1771年にプリマスに戻ったクックの航海によって、壊血病から船乗りの命を守ったのがこの食事法だったことが証明された。後に壊血病の原因がビタミンCの欠乏によることが明らかになり、オレンジなどの柑橘類の摂取が有効であることが判明した。それ以来、イギリスの船乗りは「ライム野郎(ライミー)」とあだ名されるようになった。<ビル・ローズ『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 「オレンジ」の項 p.48-51>

参考 ビタミンCの発見

 果実や野菜で壊血病が防げることはクックの航海で証明されたが、これですぐに壊血病が完全に無くなったわけではなかった。それは壊血病は感染症で、腐った肉が原因と考える人がまだ多かったからだ。20世紀のイギリス海軍の中にもそのような考えが根強く、1912年に南極点到達しながら、帰路に遭難したロバート=スコットもその一人だった。アムンゼンは栄養面の対策を立てていたが、スコット隊はその用意が無かった。壊血病の原因はまだ科学的には解明されていなかったのだった。
 壊血病の原因の解明は、有効成分であるビタミンCを食品から取りだし、その効果を実証することでおこなわれた。それはハンガリー出身の生化学者アルバート=セント=ジェルジによってなされた。20世紀初頭に、人間が生きて行くには糖類やタンパク質だけでなくある種の微量化合物、すなわちビタミンが必要であることが判ってきた。このビタミンの抽出が生化学の成果として次々となされ、バターからはビタミンA、米ぬかからはビタミンB1が分離され、1930年代になると世界の生化学者の標的は壊血病の原因物質に絞られ、それに3番目のアルファベットが振られるだろう、と期待された。
 セント=ジェルジは牛の副腎から還元性の物質をとりだし、それを動物に対して一日1ミリグラム与えれば壊血病が防げることを実証し、1932年に学術誌「ネイチャー」に発表した。その2週間後、アメリカのキングが同じ結果を「サイエンス」に発表し、両者で発見の先取権が争われたが、1939年にセント=ジェルジに「ビタミンC発見」の功績でノーベル賞生理学・医学賞が与えられ、決着がついた。同時にイギリスのハースはビタミンCの構造を解明して、安価なブドウ糖から合成することに成功し、ノーベル化学賞を受賞した。ただ、アメリカはこの二人の受賞はノーベル賞委員会がヨーロッパ人を贔屓した結果だとして、いまでもキングをビタミンCの発見者だとする人が多い。
 ビタミンCの正体が判明し、大量生産が可能になったことで、一般への普及の道が開かれ、壊血病を防ぐだけでなく、健康食品やサプリメントとしておおいにもてはやされることとなった。<佐藤健太郎『世界史を変えた薬』2015 講談社現代新書 p.34-37>
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書籍案内

ボイス・ペンローズ
/荒尾克己訳
『大航海時代』
2020 ちくま学芸文庫

イアン・グラハム
/角敦子訳
『図説世界史を変えた50の船』
2016 原書房

ビル・ローズ/柴田譲治訳
『世界史を変えた50の植物』
2012 原書房

佐藤健太郎
『世界史を変えた薬』
2015 講談社現代新書