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マクシミリアン1世

15世紀末~16世紀初めのハプルブルク家、神聖ローマ皇帝。カール5世の祖父。婚姻政策でハプスブルク家の領土拡張に努め、ハプスブルク帝国繁栄の基礎を築いた。

マクシミリアン1世
デューラーの描いたマクシミリアン1世
ハプスブルク家の特徴の鷲鼻。手に持つのは石榴。
 ハプスブルク家神聖ローマ皇帝(在位1493~1519)としてオーストリアを中心とした神聖ローマ帝国を統治した。父はフリードリヒ3世(在位1452~1493)、母はポルトガルの王女エレオノーレ(莫大な持参金をハプスブルク家にもたらしたという)の間に生まれ、さらに婚姻政策でハプスブルク家の領土を全ヨーロッパに及ぼす基礎を築いた。その領土はオーストリアを中心にネーデルラント、ブルゴーニュ、さらにボヘミア、ハンガリーに及んだ。
 一方でルネサンス期の君主として文芸の保護にもあたり、中世から近世の過渡期の皇帝として「片足を中世につっこみ、他の足で近代にも踏み込もうとしている」あるいは、「中世最後の騎士」とも言われている。 → ハプスブルク帝国

ブルゴーニュ公国王女と結婚

 1477年、ブルゴーニュ公国(ブルグンド公国)のシャルル大胆王(フランス・スイスと戦ってその年に戦死した)の王女マリアと結婚した。ブルゴーニュ公国とは、534年にフランク王国に滅ぼされたゲルマン人の国ブルグンド王国に起源を発し、フランス王家の分家のブルゴーニュ公がフランスの東南部のブルゴーニュ地方から現在のベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を含む地域を支配していた。ブリュッセル、アントウェルペン、ブリュージュなどの商業都市を含み、毛織物業の盛んな地域であった。

Episode オーストリアの王子とブルゴーニュの王女は何語で会話?

(引用)マクシミリアンが初めてブルゴーニュ公国の土を踏んだとき、この国の言葉フラマン語もフランス語も知らなかった。妃となったマリア(ブルゴーニュ公シャルルの王女)もドイツ語は理解できなかったから、夫妻ははじめのうち、たどたどしいラテン語(これが中世から近代にかけての教養人の共通語である)で話し合うという、半ば滑稽な事態も生じた。これは若い君主夫妻の間ばかりではなく、オーストリアから大挙してやってきた王子の供奉の者たち全体と、彼らを迎えたブルゴーニュの現地人との間でごく頻繁に見られた現象である。<江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書 p.48>
 もっともマクシミリアンとマリアは言葉の障害を乗り越えて愛しあい、マクシミリアンもすぐにフランス語をものにしてしまった。彼に限らずハプスブルク家の君主たちは言語能力に優れていた。彼と同名のマクシミリアン2世はドイツ語、ラテン語、フランス語、スペイン語、イタリア語、チェコ語、ハンガリー語なども理解できた。その支配下に多くの民族を抱えたハプスブルク家の君主にとっては必要なことだったのだろう。
 なお、マクシミリアンがマリアと結婚するとき、マリアにダイヤの指輪を贈ったのが、婚約指輪の習慣の由来という説があるそうです。

ブルゴーニュを獲得

 ところが、1482年3月、愛妻のマリアが不慮の事故(白鷺猟に同行して落馬)で急死すると事態は急変した。マリアとの間にフィリップ(美公)が生まれていたが、フランドルのガンなど都市はブルゴーニュ公の後継者はフィリップしか以内として、「よそ者」マクシミリアンを排斥する動きが起こった。このネーデルラントの反乱の背後にはフランス王ルイ11世の介入があった。反乱はブルゴーニュ公国全土に及んだが、マクシミリアンは反撃に転じ、ガン、ブリュージュを攻略して権威を回復し、82年中にブルゴーニュ公国領のネーデルラントをハプスブルク家の領土として確保した。

ハンガリーを制圧

 同じころ、ウィーンには父の皇帝フリードリヒ3世がいたが、ハンガリー国王マチャーシュ1世がウィーンを攻撃してきた。その背後には1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、さらに北上していたオスマン帝国の圧力があった。わずか27歳でネーデルラントの反乱を鎮圧した実績が認められ、マクシミリアンはキリスト教世界を防衛する責務を与えられ、1486年、アーヘンにおいてローマ王(神聖ローマ皇帝の後継者を意味する)に即位した。オーストリアに戻ったマクシミリアンはハンガリー・オスマン連合軍と戦い、マチャーシュ1世の急死もあってウィーンを奪回し、さらにハンガリー領内に攻め込み、ボヘミア・ハンガリー王位を回復した。

ローマに行かず神聖ローマ皇帝となる

 ハンガリー・オスマン連合軍を撃退して権威を高めたマクシミリアンは、1493年、父フリードリヒ3世の死去に伴い、神聖ローマ皇帝に選出された。しかし、ローマで戴冠式を挙行するという歴代の皇帝と同じ儀式をしていなかったマクシミリアン1世は、1508年に正式に神聖ローマ皇帝として戴冠式を行うためにローマに行こうとしたが、ヴェネツィアに阻まれたため、やむなく途中のトレントで皇帝としての戴冠式をあげた。マクシミリアンはローマで戴冠式を行わなかった(できなかった)最初の皇帝となった。これ以降、ハプルブルクの神聖ローマ皇帝はいずれもローマで戴冠式をあげることななくなった。
 一方でマクシミリアン1世は、バイエルンに併合されそうになっていたチロル地方を継承し、オーストリアを統一することにも成功した。チロルを継承したことで、チロル地方の銀山を支配し銀行業も営んでいたフッガー家との関係もでき、ハプスブルク家の財政基盤も安定した。マクシミリアンは王宮をウィーンからチロル地方のインスブルックに移し、ブルゴーニュをめぐって対立するフランスとの対立とにそなえるとともにイタリア方面への進出にもそなえた。事実、1493年、廷臣の反対を押し切ってミラノ公国のすフォルツァ家公女ビアンかと再婚し、北イタリア進出を具体化した。

ブルボン家との戦い

 1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入しイタリア戦争が始まると、ドイツ諸侯の援助を受けるため、諸侯に有利な帝国改革を実施した。しかし、フランス軍はイタリア深く侵入し、ナポリを占領した。それに対してマクシミリアンはローマ王としてローマ教皇アレクサンドル6世ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国などに呼びかけ、反フランス同盟の神聖同盟を結成して反撃に転じた。驚愕したシャルル8世がフランスに戻る途中で迎え撃ったが、漢人のマクシミリアンはドイツ諸侯を説得することができずに参戦しなかったため、シャルル8世は脱出に成功した。マクシミリアンとヴェネティアの対立にはそのような事情があった。

帝国の国制改革

 神聖ローマ皇帝マクシミリアンの軍事力の中心はすでに封建的な家臣団から傭兵部隊(ランツクネヒト)に移行していた。傭兵部隊を維持するための莫大な費用を得るためにはドイツ諸侯の協力が必要であったので、皇帝と諸侯の関係を円滑にする必要があった。ドイツ諸侯は、マクシミリアンがイタリア戦争に明け暮れているために盗賊が増えるなどの秩序が乱れているとして、事態の解決を迫った。1495年にヴォルムスで帝国議会が開催され、協議の結果、次のような帝国国制の改革案が決定された。
(引用)私闘(フェーデ)を禁じ司法による紛争解決のみを有効とした「永久ラント平和令」の発布、帝室裁判所(帝国最高法院)の創設、治安維持のための帝国管区(クライス)の導入、帝国統治院(皇帝と諸身分による政府機関)の設置、帝国議会制度の整備などが決定され、帝国の国制はここにひとまず確立された。<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.78>
 この帝国改革の結果、皇帝と諸身分を車の両輪とするドイツの二元体制はより強化され、このころから「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という表現が用いられるようになる。
 また、スイスの独立運動も強まると、マクシミリアン1世は1499年にその独立を実質的に承認した。

Episode ハプスブルク家の家訓「汝、結婚せよ」?

 ハプスブルク家は「幸いなるオーストリアよ。戦いは他のものに任せるがよい。汝、結婚せよ。」ということばを家訓にしていたという。つまり、戦いによってではなく、婚姻政策によって領地を広げよ、ということであり、これはまさにマクシミリアン1世がとった政策そのものであった。彼自身もブルゴーニュ公国のマリアと結婚してネーデルラントを領有しただけでなく、1496年、その子フィリップをスペイン王女ファナ(フェルナンドとイザベルの娘)と結婚させ、孫娘マリアをベーメン国王兼ハンガリーの王子ルドヴィクと結婚させた。そのフィリップとファナの間に生まれたカルロスがスペイン王位を継承してカルロス1世、つまり次の神聖ローマ皇帝カール5世となる。またルドウィクはベーメン・ハンガリー国王となるが、1526年にオスマン帝国とのモハーチの戦いで戦死して子がなかったため妻の実家のハプスブルク家領となり、カルロスの弟フェルディナントが相続した。このように、マクシミリアン1世が展開した「婚姻政策」によって、現在の国名で言えばオーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコ、ハンガリーに及ぶ、ハプスブルク帝国が出現することとなった。
 ただし、この「汝、結婚せよ」という言葉は出所のはっきりしないであり、意識的な「婚姻政策」なるものは誤解であるという指摘もある。それによれば婚姻先の血統が途絶えたのは偶然にすぎない。またハプスブルク家だけが政略結婚を多く行ったというわけでもない。「政略結婚」で君主となっても、支配される側の諸身分の支持がなければうまくいくはずがないという指摘は確かにそのとおりです。<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.83>
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ノートの参照
8章4節 ウ.スペインの全盛期
書籍案内

江村洋
『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

岩﨑周一
『ハプスブルク帝国』
2017 講談社現代新書