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ルター派

ドイツの宗教改革者ルターの信仰を継承する人々で、ドイツ北部から北欧に広がった。ローマ教会の権威を否定し聖書のみを信仰のよりどころとし、同時代のカルヴァンの改革とともにプロテスタント(新教徒)といわれた。

 1517年に始まったドイツの宗教改革の提唱者ルターの信仰を支持するキリスト教の宗派の一つで、一般にカルヴァン派とともにプロテスタントに含まれる。  当初、ルターの改革は1521年に神聖ローマ皇帝カール5世の出したヴォルムス勅令によって異端と断定された。しかし当初は封建社会の中で抑圧されていた農民層に広がり、彼らは信仰の自由を求めてカトリック側に立つ領主層との間ではげしいドイツ農民戦争(1524~25)を展開した。しかし、ルター自身が農民の闘争を否定したことから次第に領主層、都市住民にも広がっていった。

プロテスタントと言われる

 一方、フランス王フランソワ1世とのイタリア戦争オスマン帝国のバルカン進出で苦境に立っていたカールは、1526年シュパイアー帝国議会(第1回)でルター派の信仰を認めたが、1529年の第二回では一転してルター派を否認した。このときルター派の領主や都市は抗議文を出したことから、彼らを抗議する人々の意味でプロテスタントといわれるようになった。

ルター派の公認

 新旧両派の戦いは、ようやく1555年アウクスブルクの和議が成立し、ルター派の信仰は、カルヴァン派とともに認められた。ドイツにおける宗教改革はこれで終結したが、その原則は「領主の宗教、その地で行われる」であったので、民衆レベルでの信仰の自由が実現したものでは無かった。1569年にはドイツ東方の有力な諸侯であったブランデンブルク選帝侯国がルター派となり、その領民もプロテスタントとなった。

ドイツ・北欧に広がる

 ルター派が広まったのは、ドイツとデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国であった。デンマークスウェーデンはルター派新教国として、17世紀前半の三十年戦争でドイツ内のルター派諸侯を応援するため出兵した。とくにスェーデンは17世紀後半、バルト帝国と言われてバルト海沿岸を支配し、台頭してきたギリシア正教徒のロシアと対立することになる。
 カルヴァン派に比べ、ルター派の広がりが狭く、しかもキリスト教圏の後進地域に限られていたことにはいろいろな理由が考えられる。ルターの思想はカルヴァンと比べれば徹底を欠く(例えば武力抵抗について、ルターは否定したが、カルヴァンは忍耐と抗議の末であれば国民の中の指導層にかぎり政府への抵抗権を認めたなど)こと、ルター派の教会は領邦教会制で政治権力の統制を受け入れたが、カルヴァン派の教会は長老制度をとり、自立していたこと、などが考えられる。なお、日本ではルーテル派といわれており、ルーテル教会、ルーテル学院大学などがある。
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