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ヴォルムス帝国議会/ヴォルムス勅令

1521年、神聖ローマ皇帝カール5世が召集、ルターを喚問した議会。ルターが自説の撤回を拒否したため異端と断定し、カール5世はルターを追放するヴォルムス勅令に署名した。

 1521年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世がヴォルムスに召集した帝国議会。ヴォルムスはライン左岸にあるドイツの都市で、1122年に叙任権闘争の宗教和議であるヴォルムス協約が成立したところとして知られる。帝国議会とは神聖ローマ帝国(ドイツ)における聖俗の諸侯、都市代表らが召集され、皇帝の諮問を受ける身分制議会のこと、近代以降のような国民の代表を選挙で選ぶ議会ではないので注意すること。

カール5世によるルター喚問

 1517年、ルターは『九十五ヶ条の論題』を発表して宗教改革に乗り出した。その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大した。それに対して、1519年、神聖ローマ帝国皇帝選挙をフランス王フランソワ1世と争って皇帝となったカール5世は、ドイツの各領邦、諸侯、高位聖職者の支持を確保する必要があり、当時ドイツ各地で問題となっていたルター派と教会の対立を調停する必要に迫られた。
 そこで、ウォルムス帝国議会を招集して新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターを喚問し、その教説の撤回を迫った。ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここにわたしは立つ」と言ったという。議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定を行い、それはカール5世の名によってヴォルムス勅令として発布された。

ヴォルムス勅令

 1521年のヴォルムス帝国議会において、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が署名し、発効した勅令(皇帝の命令)。ルターを異端者であるとして断定し、帝国の保護外に追放し、その著書の販売・購読を禁止した。これによってカトリック教会と神聖ローマ帝国皇帝はともにルターを明確に弾圧する態度を取ることとなり、ルターおよびルターを支持した諸侯や農民との間での宗教対立は宗教戦争へと突入していく。

ウォルムス勅令以後の推移

ルターの脱出  ルターはウォルムスを密かに脱出し、ザクセン選帝侯フリードリヒによってヴァルトブルク城かくまわれ、そこで聖書のドイツ語訳などの活動を続けることとなる。
ドイツ農民戦争  それにたいしてルター派の抵抗はかえって激しくなり、1524年にはドイツ農民戦争が勃発した。また、カール5世はそのころフランス王フランソワ1世とのイタリア戦争、オスマン帝国のスレイマン1世の侵攻にも悩まされていたので、ルター派を容認して国内を安定させる必要があった。
シュパイエル帝国議会  そこで1526年にシュパイエル帝国議会(第1回)を召集してルター派の信仰を認めた。ほぼ同時にモハッチの戦いでスレイマン1世のオスマン帝国軍が、ハンガリーを征服し、カール5世の不安は現実のものとなった。
ヴォルムス勅令の復活  しかし、一方のイタリア戦争で優位を確保したカール5世は、再びルター派否認に転じ、1529年の第2回シュパイエル帝国議会ではヴォルムス勅令を復活させた。それに対してルター派は抗議文を提出し、そこからプロテスタントといわれるようになった。
シュマルカルデン戦争  こうしてルター派は新教徒=プロテスタントとして明確な勢力となり、その後、シュマルカルデン戦争という宗教戦争を戦っていくこととなり、ようやく1555年のアウクスブルクの和議でその信仰の自由(といっても領主クラスにとどまったが)が認められた。なお、一般大衆の信仰の自由が保障されるのはさらに後の17世紀の三十年戦争後のウェストファリア条約によってである。
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ノートの参照
8章3節 ア.宗教改革の始まり