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シュパイエル帝国議会

神聖ローマ皇帝カール5世が召集した、ルター派容認の可否を問う議会。1526年の第1回ではルター派を容認したが、1529年の第2回で否認した。それに対してルター派が抗議したことからプロテスタントと言われるようになる。

 シュパイエルはシュパイアーとも表記する、ドイツ南部ライン川沿いの帝国都市(皇帝に直属する都市)。1526年と1529年の2回、神聖ローマ皇帝カール5世がシュパイエルで帝国議会を開催した。第1回でルター派の信仰を認め、第2回では逆転して容認を撤回した。帝国議会とは神聖ローマ帝国(ドイツ)における身分制議会。
第1回 1526年 ドイツで宗教改革の動きが進み、ルター支持の諸侯も増え、またドイツ農民戦争(1524~25)が勃発した頃、皇帝カール5世イタリア戦争でフランス王フランソワ1世と戦い、さらにオスマン帝国のスレイマン1世がバルカン半島からオーストリアに侵入しウィーンに迫るという危機を迎えていた。カールはどうしてもドイツ諸侯の援助を確保しなければならなかったので、1526年にシュパイエルで帝国議会(第1回)を開催し、諸侯が領内で宗教改革を行うことを認めた(つまり、ルター派の信仰を認めた)。その二日後、モハッチの戦いでスレイマン1世のオスマン帝国軍が、ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させた。ラヨシュ2世の妻はカール5世の妹であった。
第2回 1529年 イタリア戦争の一時講和に成功したカール5世が、1529年4月にシュパイエル帝国議会(第2回)を召集し、今度は一転してルター派容認を撤回しヴォルムス勅令が復活させた。これに対して新教側の諸侯・都市は反発して「抗議文」を提出した。この時から新教徒勢力をプロテスタント(抗議する人の意味)と言うようになった。しかしこの年の9月には、オスマン帝国のスレイマン1世が大軍を率いてウィーン包囲(第1次)があった。ドイツにおけるルター派容認の問題はさらに持ち越されることとなった。
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ノートの参照
8章3節 ア.宗教改革の始まり