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サン=トメ島

15世紀、ポルトガル人が黒人奴隷貿易の拠点を設けたギニア湾の島。1975年、独立してサントメ=プリンシペ共和国となる。

サントメ=プリンシペ GoogleMap

 アフリカ大陸の西岸、ギニア湾にある、ほとんど赤道直下の島。サントメとは、キリスト教の聖人、聖トマスによる。1470年にポルトガル人が上陸して命名した。

ポルトガル人による砂糖プランテーション

 ポルトガル人は、この地で黒人の奴隷労働によるサトウキビ栽培が導入し、砂糖の生産の大プランテーションの経営を行い、これを基礎に製糖工業を展開していた。<エリック・ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで―カリブ海域史1492~1969』1970 岩波現代新書 2014 p.7>
 砂糖(製糖業)はインドや中東から、15世紀に地中海に伝えられ、シチリアやキプロスが生産地になっていた。ポルトガルはモロッコセウタを征服して砂糖の生産地を獲得、マディラ島アゾレス諸島での砂糖栽培を開始し、ついでサン=トメ島で黒人奴隷を使役して砂糖を生産するという砂糖プランテーションを開始した。

黒人奴隷貿易の拠点

 その後もサン=トメ島はポルトガルのアジア・アフリカ進出の拠点として重要な島となった。1522年にポルトガル領となり、ギニア地方黒人奴隷がこの地に集められ、新大陸に運ばれる三角貿易の中継拠点とされ大西洋黒人奴隷貿易と共に繁栄した。1574年に奴隷反乱が起きたことで、奴隷貿易の拠点がルアンダ(現在のアンゴラの首都)に移ったため衰微した。

独立

 第二次世界大戦後もポルトガル領として続いたが、1960年代から独立運動が始まり、本国ポルトガル革命(カーネーション革命)の翌年、1975年に隣のプリンシペ島と共に独立し、サン=トメ・プリンシペ共和国となった。現在でもポルトガル語が公用語である。ポルトガルによって行われた大西洋黒人奴隷貿易の歴史上、忘れてはならない場所である。 → ポルトガル領植民地の独立
※参考 江戸時代の日本でオランダ人によってもたらされた輸入綿織物のことを唐桟(とうざん)といった。これは「サントメ」製の綿織物の意味だが、この場合のサントメは、インドの東海岸コロマンデル地方のサントメのこと。もとはこちらも最初に進出したポルトガル人が聖トマスに因んで名づけた地名。聖トマスはイエスの十二使徒の一人で、伝説では東方世界のインドまで布教に行ったとされている。トマスはキリスト教徒の名前に多く、ポルトガル人が進出した地域の地名にも多い。

参考 サン=トメ島の盛衰

(引用)ポルトガルはギニア湾のサン・トメ島にも第一級の居留地を持っていた。アフリカ海岸から150マイル離れ、赤道上に斜めに横たわるこの島は、海抜7000フィートもあって気候は変化に富んでいるため、赤道地帯にも拘わらずヨーロッパ人も比較的健康且つ快適に住めるのである。この島は早くからユダヤ人や流刑囚の居留地となっていて、ベニンのグヮトー商館時代にはサン・トメ島は(主としてアメリカ向け奴隷輸出による)貿易で繁栄を迎えていた。事実この島は同海岸地方のあらゆる奴隷取引の主要交換所の観をていしていた。1540年頃から少なくとも一世代の間、この島の隆盛は甘蔗(サトウキビ)産業の勃興によって一層の高みに達した。この産業は極めて好適な土壌に恵まれて途方もなく栄え、入植者達は豪奢な暮らしを満喫したが、これは西印度諸島における英国人入植者の上流階級の生活よりも二世紀先んずるものであった。この全く瞠目すべき繁栄の時期からサン・トメ島は衰微の道をたどるのであるが、これには幾つかの原因があった。1574年の奴隷の蜂起によって生産が打撃を受けたこと、大部分の砂糖の仕向地アントワープがオランダにおける一揆によって包囲されていたこと、そしてほぼ同じ頃、大西洋の彼方へ送り込む奴隷貿易が新たに建設されたアンゴラの港ロアンダ(ルアンダ)に移ってしまったこと、等々である。<ペンローズ『大航海時代』荒居克己訳 筑摩書房 p.154>