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トマス=ペイン

1776年、『コモン=センス』を発表し、アメリカの独立を当然の権利であり、必然であるとして正当化した。独立戦争に大きな勇気を与えた。また、フランス革命期のフランスに渡り、国民公会の議員としても活躍したが、恐怖政治下では入獄した。

トマス=ペイン
Thomas Paine 1737-1809
 トマス=ペイン(1737-1809)Paine は、アメリカ独立戦争の開始された翌年の1776年に『コモン=センス』を発表、アメリカがイギリスから分離・独立することが正当であることを簡潔に、力強く訴えた。このパンフレットはたちまちベストセラーとなり、独立戦争開始後に苦戦を強いられていた独立派の人々に勇気と展望をあたえ、勝利に導く大きな力となった。

革命家ペインの生涯

 トマス=ペインは教科書にはこの『コモン=センス』の著者としてしか触れられていないが、実はアメリカ独立革命だけではなく、フランスに渡ってフランス革命に深く関わり、またイギリスでも革命運動を起こそうとした、「祖国なき革命家」ともいわれる興味深い人物である。以下、ハワード・ファースト著『市民トム・ペイン』などによって、その活動の足取りを追ってみよう。
コルセット職人ペイン  ペインは1737年、イギリスのセットフォードで、クウェーカー教徒のコルセット職人の子として生まれた。彼もコルセット職人として修行し、自分の店を持つまでになったが、貧しく、また結婚1年で妻に死なれるなどの不幸が続いた。生活のため税務署に勤めるが、そこはトラブルに巻き込まれてクビになる。鬱々としたペインはすでに40歳になっていた1774年、当時ロンドンにきていたアメリカの科学者として知られていたフランクリンを訪ねる。フランクリンから紹介状をもらい新天地アメリカに旅立つ。74年の11月、フィラデルフィアに到着した。
アメリカ独立戦争  フィラデルフィアでもさまざまな職業を転々としながら、雑誌『ペンシルヴェニア・マガジン』に寄稿するうち、その編集を任される。そして1775年4月、レキシントンの戦いで植民地人がイギリス軍と衝突、独立戦争が始まった。ペンシルヴェニアでも独立派(愛国派)と国王派(トーリー派)の衝突が起きる。ペインは76年1月、『コモン=センス』を発表、その小さなパンフレットは、前線の独立派民兵に広く読まれ、ワシントンジェファソンらの大陸会議の指導者にも読まれた。7月にだされたアメリカ独立宣言にもその思想は取り入れられた。ペイン自身も従軍して戦況の報道を続けたが、ニューヨーク付近の戦いでワシントンの率いる独立軍が大敗し、命からがらフィラデルフィアに戻る。危機に直面してもペンを取り続け、「アメリカの危機」と題して印刷し今こそ「人の魂が試されるとき」だ、と書いて独立軍を鼓舞した。バレーフォージに退却したワシントンを訪ね、そのもとで報道を続けた。ついに勝利の日を迎え、ペインは功績により、ニューヨーク郊外に農地を支給された。
フランス革命に遭遇 アメリカ独立が達成されると、ペインは新たな生き方を模索して政治から離れ、世界でで初めての鉄橋の製造に熱中する。そのアイディアをもってイギリス、フランスを渡り歩くが、結局それは実現しなかった。1789年秋、革命最中のフランスに渡り、ヴェルサイユ行進などの革命の高揚を目の当たりにする。
イギリスを追われる   1791年、イギリスでのペインの友人であったバークが議会でフランス革命を厳しく非難し、さらにその趣旨を『フランス革命の省察』と題して出版したことを知り、ペインはイギリスに戻ってバークに反論し、フランス革命を擁護する『人間の権利』を発表する。ペインはその書で、フランス革命を弁護しただけでなく、イギリスの君主政をはげしく非難した。ペインのもとにはイギリスで革命を起こそうとした人たちも集まってきた。そのため、時のピット内閣はその書を発禁処分とし、ペインを捕らえようとした。あやうく逮捕を逃れたペインは再び、フランスに向かう。
国民公会の議員となる フランスでは温かく迎えられ、フランス市民権をあたえられてカレー県から国民公会の議員に選出された。当時は外国人でも革命を支持して国民公会の議員になる者が何人もいた。国民公会ではコンドルセなどのジロンド派に協力して、憲法草案の作成を援助した。しかし、前国王ルイ16世処刑問題では、ジロンド派に同調して、革命の終結まで投獄しておき、革命成就後に裁判をすべきであると主張し、死刑には反対した。そのため、急進派のジャコバン派と対立し、93年6月のジロンド派追放後は議場で孤立し、ついに12月、彼自身も「共和国に対する反逆」という罪名で投獄されてしまう。
恐怖政治によって入獄する 恐怖政治のもとでペインはリュクサンブール牢獄に1年ほど囚われ、つぎつぎと囚人がギロチンに送られるのを見続け、心身共に打ちのめされた。その中で、最後の著述のつもりで『理性の時代』を書き続ける。それは、無神論を批判しながら、旧来のキリスト教各派の教会や教団のあり方を糾弾する書であった。その間、テルミドールのクーデタが起こり、ロベスピエールが失脚。それでもペインは出獄できないでいたが、ようやく駐仏アメリカ大使モンローの奔走で94年11月に釈放され、しばらくモンロー邸で静養した。
ナポレオンと決別する   獄中生活でぼろぼろになった体を休めていたペインの下宿先を小柄が男が訪ねてきた。それがナポレオンだった。ナポレオンはペインの著作を愛読していたと言い、統領政府の会議への出席を要請した。ペインはようやく活躍のチャンスが巡ってきたと思い、正装して出かける。しかしその会議は、イギリス征服戦争の戦術をどうするかと言うことがテーマだった。意見を問われたペインは、たとえイギリス帝国の軍隊には勝てても、イギリス人民を支配することはできない、と答える。ナポレオンは「ペインさん、もう結構です」と言ってその後は二度と呼ばれることはなかった。こうしてフランスにも居場所がないことを知ったペインは1802年にアメリカに戻る。
祖国なき革命家ペイン ペインが戻った当時のアメリカはジェファソン大統領が次期大統領選挙でフェデラリストと対決しているところだった。ペインは旧知のジェファソンに政府で役に立ちたいと申し出る。しかし、ジェファソンは断った。それはペインの著書『理性の時代』の教会批判が、危険な思想と受け取られ、フェデラリストから攻撃材料にされることを恐れたのだった。事実、民衆にとっては『コモン=センス』の著者で独立戦争の英雄としてのペインはすでに忘却されており、フランス革命仕込みの過激な思想家としてしか見られていなかったのだ。ペインは「無神論者」として、たびたび民衆から暴力を振るわれ、追い立てられることもあった。アメリカにも居場所のないことを知ったペインは、老体を酒にひたすような悲惨な生活を送るようになり、1809年に死んで、自分の農場に葬られた。後にイギリスのある山師がペインの遺骨を見世物にしようとし、掘り出してイギリスに運んだが、うまく行かず、遺骨は行方不明になってしまったという。<ハワード・ファースト/宮下嶺夫訳『市民トム・ペイン 「コモン=センス」を遺した男の数奇な生涯』1943 晶文社 1985刊 及び、トマス・ペイン/西川正身訳『人間の権利』岩波文庫 1972刊 巻末の年譜による>

コモン-センス

1776年1月に発表された、トマス=ペインの著作。<常識>の意味で、イギリスからのアメリカの独立は、人権上の当然の権利であり、いわば常識であるとして正当化し、空前のベストセラーとなって独立戦争に大きな勇気を与えた書物。

 1776年1月、トマス=ペインが発行した小冊子。ワシントン指揮のアメリカ独立軍がボストンを包囲している時期に刊行さえたこの書は、10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞した。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するか、いずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」Common Sense である、と主張した。また、独立してイギリスをはじめとする諸外国と対等な貿易を行うことが、アメリカの利益になる(そしてイギリスにとっても利益になる)ことなのだ、と説いた。
王政と世襲制を批判  まず最初にペインは、イギリスの立憲君主政を「古代における二つの暴政の汚い遺物と新しい共和政的要素とが混合している」代物だとこき下ろす。二つの暴政の汚い遺物とは、「国王という君主専制政治の遺物」と「上院という貴族専制政治の遺物」である。それに対する下院が新しい共和政治の要素であり、その性能いかんにイギリスの自由がかかっているが、下院は二つの遺物を制御できないしくみになっており、国王が下院を支配している。二つの遺物は、ともに世襲制という「愚劣な」習俗が続いているに過ぎない。世襲制は人間の平等という神が人間に等しく与えた権利にそむくことである。イギリスの国王も、元をただせばノルマン征服でイギリスを奪ったウィリアムという盗賊の子孫に過ぎない。
(引用)もうイギリス憲法にはうんざりだ。なぜかというと、王政が共和政を毒し、王が下院を独占したからだ。イギリスでは国王は戦争をしたり、官職を分配したりするほかは、することはほとんどない。はっきり言えば、王がやっているのは国民を貧乏に追いやったり、仲たがいさせたりすることなのだ。一人の人間が一年間に八〇万ポンドをもらい、おまけに崇拝されるとはなんと結構な職務ではないか。神の目から見ると、これまでの王冠をかぶった悪党全部よりも、一人の正直な人間のほうが社会にとってずっと尊いのだ。<トマス=ペイン/小松春雄訳『コモン=センス』岩波文庫 1976刊 p.41>
イギリスの統治の不自然さ  またペインは、イギリスがアメリカを支配することは、小さな衛星が大きな惑星を支配するような、不自然で不合理なことであるという、わかりやすい例で、アメリカの独立が必然であることを説明した。
(引用)自衛力のない小さな島なら、政府が面倒を見るのにふさわしい。しかし大陸が永久に島におって統治されるというのは、いささかばかげている。自然は決して、衛星を惑星よりも大きくつくらなかった。イギリスとアメリカとの相互関係は一般的な自然の秩序に反しているので、明らかに両者は異なった組織に属すべきである。すなわちイギリスはヨーロッパに、そしてアメリカはアメリカ自身に属すべきだ。<トマス=ペイン 同上 p.55>
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ノートの参照
10章2節 イ.アメリカ合衆国の独立
書籍案内

トマス=ペイン
/小松春雄訳
『コモン=センス』
岩波文庫 1976刊

トマス=ペイン
/西川正身訳
『人間の権利』
岩波文庫 1971刊

ハワード・ファースト
/宮下嶺夫訳
『市民トム・ペイン― 「コモン・センス」を遺した男の数奇な生涯』
晶文社アルヒーフ 1985