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永世中立

国際的に他国との関係を持たない国際法上の状態。スイス・ベルギー・オーストリアなど。1983年には中米のコスタリカが永世中立を宣言した。

 永世中立とは国際法上の概念で、通常の外交上の中立政策とは意味が違う。永世中立とは、他国との条約によって、他国に対して武力を行使せず、また他国間の戦争にも参加せず、武力行使を義務とする同盟などは締結しないこと(局外中立)を誓約することである。永世中立国は、やむを得ない自衛の場合を除いて武力を行使しないことを誓約し、条約締結国はその独立と中立を承認し、保障する。

永世中立を宣言した国々

 このような永世中立国の最も典型的な例が、ウィーン議定書でのスイスである。それ以外にも、1839年のベルギーの中立化、第二次世界大戦後の1955年のオーストリア(オーストリア国家条約)などがある。
 スイスとベルギーは、ともに国内では多言語国家であり、特にベルギーは統合が困難であったことが背景にある。しかしベルギーは第二次世界大戦後は厳密な意味での永世中立という立場を改め、国際連合とNATOは発足時からのメンバーで、ヨーロッパ連合(EU)にも加盟し、ヨーロッパ統合には積極的な姿勢に転換した。スイスは2002年にようやく国際連合に加盟したが、EU、NATOには加盟していない。オーストリアは国際連合、EUにともに参加しているがNATOには加盟していない。
 最近では、中米の小国コスタリカは、1948年に軍隊を廃止して以来、憲法にも非武装を掲げているが、1983年にはさらに永世中立を宣言している。

スイスの永世中立

 スイス連邦は、カントンと言われる主権を持つ地方組織の連合体である。ハプスブルク家からの長い独立の戦いを経てスイス盟約者団が国家の中核となり、1648年のウェストファリア条約によって独立を国際的に承認された。その後も周辺の列強の干渉や侵略を受けながら、武装して中立を守るという伝統を築いて行き、ナポレオン戦争後のウィーン会議で永世中立国であることが承認された。スイスの場合は、憲法で中立を謳っているのではなく、各国に対して中立であることを表明することで維持されている。スイスは第一次世界大戦、第二次世界大戦で大きな危機を迎えたが、いずれもの武装中立を守ることで直接的な戦火を免れた。しかし、戦後の集団安全保障の国際的な動きに対しては、国際連盟には加盟、国際連合には当初加盟しないという違いが見られた。2002年に国連には加盟したが、EU加盟は国民投票で否決され、実現していない。 → 近代のスイス連邦

もう一つの緩衝国家ルクセンブルク

 ドイツ、フランスにはさまれているルクセンブルクは、ウィーン議定書ではオランダ国王をルクセンブルク大公とする大公国としてドイツ連邦に加盟したが、その1866年の普墺戦争の結果としてドイツ連邦が解体されたとき、その支配をめぐってフランスとプロイセンのあいだにルクセンブルク問題という対立が生じた。この対立は、翌年のロンドン会議でルクセンブルクが永世中立国とされることで妥協が成立した。ルクセンブルクはスイスやベルギーと同じ大国間の緩衝国家として永世中立国となった。しかしこの永世中立も二度の世界大戦でドイツに破られたためか、大戦後のルクセンブルクは永世中立を放棄し、NATOに加盟、さらにベネルクス三国を構成して欧州統合には積極的に加わっている。その点ではスイスとは異なっている。

第二次大戦後のオーストリア

 1955年5月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国との「オーストリア国家条約」によって独立(国家回復)が認められたオーストリアは、条約の規定に従い、同年10月、「永世中立に関する連邦憲法法規」(中立法)を制定して、世界に向けて「永世中立国」であることを宣言し、どの軍事同盟にも属さず、その領土に外国の軍事基地を置かないことを定めた。同時に国際連合への加盟も果たした。オーストリアは国際連合には加盟しているが、集団的自衛権を掲げる北大西洋条約機構(NATO)には加盟していない。ただし、協力関係にある。ヨーロッパ連合(EU)には1995年に加盟したが、その共通外交安全保障政策(CFSP)と中立政策は両立するとの立場をとっている。
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