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スイス

ヨーロッパの中心、アルプスの山岳地帯にある多民族国家。住民自治や永世中立など、典型的な小国としての政治を維持し、独自の文化を継承している。

 → (1)成立と独立  (2)ウィーン議定書とスイス  (3)現代のスイス

スイス(1) 成立と独立

アルプスの山岳地帯にであったが、ヨーロッパの中心に位置するため、古くから交通の要衝であった。中世には長くハプスブルク家の支配を受けたが、13世紀に独立運動を開始し、15世紀末に実質独立を獲得した。

 ローマ時代にはケルト人の一派が居住していたが、カエサルのガリア進出の際にこの地もローマの属州とされた。ゲルマン民族の移動によって、ブルグンド族などの支配を受けた後、フランク王国の領土となった。

ハプスブルク家による支配

 ついで神聖ローマ皇帝がイタリア政策を遂行するためには重要な交通路としたために、皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に付くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。

スイスの独立運動

 ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウリ・シュヴァイツ・ウンターリンデンの三州が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点とされ、8月1日は現在もスイスの建国記念日とされ、この三州は「原初三州」といわれている。1316年には皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。なおもハプスブルク家の名目的な支配が続いたが、1499年のシュヴァーベン戦争で最終的にハプルブルク帝国からの分離が確定した。

Episode ウィリアム・テルの伝説

 スイスの独立運動というとウィリアム・テルの話が有名である。ウリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。ただしこの話はまったくの伝説で、しかも15、6世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。しかし、スイスのハプスブルク家からの独立運動の心情をよく現しているので、広く受け入れられたのであろう。

スイスの宗教改革運動

 16世紀の宗教革命の時期には、チューリヒツヴィングリが現れ、またジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど、運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年のナントの勅令で信仰を認められた。

独立の国際的承認と新教徒の移住

 ドイツでの宗教戦争である三十年戦争でハプスブルク家の劣勢のまま講和となったため、スイスの独立が国際的に承認されることとなり、1648年のウェストファリア条約によって確定した。
 その後、フランスでルイ14世がナントの王令の廃止(1685年)を行ったため、その多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。

スイス(2) ウィーン議定書とスイス

ナポレオンの支配を受けた後、1815年のウィーン議定書で永世中立国となる。連邦制を守り、周囲の強国の干渉を避けるための原則であった。

 スイスは、1648年のウェストファリア条約で独立が国際的に承認されたが、各州の対立から統一が進まず、フランス革命時にナポレオンの征服を受けた。  ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとっても重要な意味があると認識されたので、その領土と国家形態について話し合いがもたれ、その合意として、1815年のウィーン議定書で、22州(カントンといわれる自治体)からなる連邦国家であり、しかも永世中立国となることと同時に承認された。

スイスが永世中立国となった理由

 ウィーン会議において、スイス盟約者会議団(スイスは自らこう名乗っている)はスイスの独立と中立の承認をとりつけるため三人の代表が次のような主張を行った。
(引用)スイスの同盟体制を一瞥すれば、もし中立が不確かであったり、政治や戦争の変化にただ放っておかれれば、スイス国民ほどヨーロッパのなかで不幸な国民はいないことをただちに納得させられるであろう。しかし、この際スイスの安寧だけが考えられているわけではない。この中立はドイツ、イタリア、それにフランスの平安にも決定的に大事なのである。これらの国々にとっては、ヨーロッパ内の最近隣国が最も強力な防衛位置であると同時に、最も危険な攻撃地点でもある。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.167>
 つまり、スイスが永世中立となることは、ドイツ、フランス、イタリアおよびオーストリアという周りの4国にとってもその安全保障上、好ましいことであったのである。またスイスの各州(カントン)にとってもスイスとしての統一を維持するためには周辺の強国のいずれとも同盟関係を結ばず、永世中立であることが必要だったわけである。  

スイス(3) 現代のスイス

スイス国旗

2002年、国際連合に加盟したが、ヨーロッパ連合やNATOには加わらない、永久中立を維持している。

 アルプス山中にある小国で面積は九州よりやや大きい程度。人口は約750万。人口はベルン。国民は言語圏に別れておりその割合は、ドイツ語(63.7%)、フランス語(19.2%)、イタリア語(7.6%)、レート・ロマンシュ語(0.6%)、その他(8.9%)<外務省ホームページより>

スイス国家の特徴

多言語・連邦制 憲法ではそのいずれもが国語であると規定され、公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語が指定されている。また憲法では26の州(カントンという)から構成される連邦共和制をとり、元首は連邦大統領であるが、憲法上の国名は中世以来の「スイス盟約者団」を名乗っている。各州はそれぞれ憲法を持つなど自治意識が強い。
直接民主政・永世中立  またスイスは直接民主政が発達しており、イニシアティブ(国民提案制度)とレファレンダム(国民投票制度)が連邦レベルでも採用されている。外交では永世中立国であることを国際的に承認されている。国際連合にも長い間加盟していなかったが、最近(2002年)にようやく加盟した。EU加盟については2001年の国民投票で早期交渉開始そのものが否決された。

ヨーロッパにおけるスイス

 スイスが直接民主政と永世中立を守っている意味は、次のような説明がわかりやすい。
(引用)1291年、アルプスの三つの州の山岳民が、永続的な同盟を結びました。アルプスの大いなる山々を統べるスイス連邦の始まりです。住民は一人一票の民主主義の原則にもとづき、首長を選びました。首長には、国の統治について、住民すべてに説明する義務がありました。以来、スイスは平等と独立に基礎をおく国家になり、20世紀には、戦争に巻き込まれるかもしれない国家ブロックへの加入を拒否しました。スイスはその中立性ゆえに19世紀、あらゆる国の人にたいする国際的慈善組織である赤十字や、第一次世界大戦と第二次世界大戦に国際紛争を避けるために設立された国際連盟などの本拠地になりました。独立を守ろうという意思から、近年スイスはEU(ヨーロッパ連合)への加盟を拒否しました。しかしなおスイスはヨーロッパの中心でありつづけています。<ジャック=ル=ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史』2009 ちくま学芸文庫 p.76>
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ノートの参照
第6章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧
第12章1節 ア.ウィーン会議
書籍案内

森田安一
『物語スイスの歴史』
2000 中公新書

ル・ゴフ/川崎万里訳
『子供に語るヨーロッパ史』
2009 ちくま学芸文庫