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神聖同盟

1815年成立したロシアの提唱によるヨーロッパ君主国の同盟。ウィーン体制を補完しナポレオン戦争後の平和維持に機能するとともに、自由主義、民族主義などの運動弾圧に共同歩調をとった。ギリシア独立戦争など東方問題をめぐる対立から機能しなくなった。

 1815年9月、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で成立した、ヨーロッパの君主国の同盟。イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシアの四国同盟(後にフランスが加わり五国同盟)とともにウィーン体制を補完するための同盟であった。

ロシアが提唱

 ロシア皇帝アレクサンドル1世が皇后エリザベータの信じていた予言者クリュデネル夫人から、皇帝は神から選ばれた人間であり、ナポレオンは悪魔であった、と暗示されて、原文を作成。皇后が「神聖同盟」と名付けた。メッテルニヒもわずかしか手を加えず、オーストリア皇帝フランツ1世、プロイセン王フリードリヒ=ウィルヘルム3世が署名。初めはこのロシア、オーストリア、プロイセンの三国だけであったが、ヨーロッパの君主国が次々と加盟し、ウィーン体制の反動体制の国際組織となった。イギリス国王、ローマ教皇、オスマン帝国のスルタンは加盟しなかった。イギリスが四国同盟には加盟したが、神聖同盟には加わらず、大陸諸国と一線を画したことに注意すること。

自由主義・民族主義の弾圧

 ウィーン体制に対する反発として、各国で自由主義民族主義の運動が活発になると、大陸諸国の君主国連合は協力してその弾圧に当たった。その際は、四国同盟(五国同盟)よりもイギリスを含まない神聖同盟として動いた。1820~21年のイタリアのナポリやピエモンテのカルボナリの蜂起、1823年のスペイン立憲革命などに対して、オーストリア、フランス、ロシアが武力干渉を行っているが、これらの軍事行動は参加国の単独意思ではなく、トロッパウ、ライバッハ、ヴェローナなどで開催された神聖同盟の国際会議の意志として実行された。
平和維持機構としての評価 神聖同盟は正統主義の理念の下、オーストリアのメッテルニヒによって牽引され、ウィーン体制を維持し、革新運動を弾圧する軍事同盟とし機能した。同時に、ウィーン体制は19世紀列強の対立を調整し、ナポレオン戦争後の大規模な戦争が起こるのを避けるという「平和維持機構」としては一定の評価がされるべきである。しかし、次第に加盟国の利害の対立が明確になり、維持が困難となっていった。

神聖同盟の機能不全

 五国同盟は1822年に起こったスペイン立憲革命の対応をめぐってイギリスが脱退したため、機能を失っていたが、神聖同盟は1821~29年のギリシア独立戦争ではロシア・フランスが積極的に応援したのに対しオーストリアのメッテルニヒは民族運動の高揚を恐れて反対し、足並みの乱れが明確になったため機能を失った。1848年革命でウィーン体制が崩壊すると、列強の利害対立が鮮明となり、1853年にロシアとフランスの対立を軸としたクリミア戦争が始まり、再びヨーロッパは戦争の時代となる。 → 東方問題
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