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メッテルニヒ

オーストリアの外相、後の首相で、ウィーン体制時代を代表する政治家。1848年三月革命で失脚した。

オーストリアの外相として、ウィーン会議の議長となり、後に宰相となった。フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の国際政治の中心的存在として重きをなした。

自由主義・ナショナリズムを弾圧

 オーストリア帝国はドイツ連邦の議長国としてその主導権を握り、連邦諸国内の自由主義ナショナリズム運動弾圧の中心にたち、保守反動体制の柱と見なされた。1817年のブルシェンシャフトの蜂起が起きると、その弾圧に努め、1819年にはドイツ連邦諸国に呼びかけ、カールスバードの決議をだして言論統制・大学に対する監視などの弾圧を強化した。

ウィーン体制の動揺

 さらに当時、スペイン・ポルトガルの混乱に乗じたラテン=アメリカの独立運動が活発になったが、それに対しては旧宗主国の介入を支持して、植民地支配の継続をはかろうとした。それに対してアメリカ合衆国はモンロー教書を発表してヨーロッパ旧勢力の新大陸への干渉を排除しようとし、イギリスもそれを支持した。こうしてイギリスは次第にウィーン体制から距離を置くようになった。また、ギリシア独立戦争(1821~29年)では、イギリス・フランス・ロシアはギリシアのオスマン帝国からの独立を支援したが、メッテルニヒはギリシアの民族独立がオーストリア支配下の民族独立運動を刺激することを恐れ、消極的であった。

1848年

 メッテルニヒ外交はヨーロッパ各国の外交を巧妙に乗り切ってきたが、各国の思惑の違いから、ウィーン体制の国際秩序は次第に崩れていった。そして、1848年革命の嵐が全ヨーロッパに吹きまくると、ウィーンでも三月革命が起こった。その打倒すべき最大の標的とされたメッテルニヒは、かろうじて女装してウィーンを脱出し、イギリスに亡命した。
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ノートの参照
第12章1節 ア.ウィーン体制