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メッテルニヒ

オーストリアの外相、後の首相。ナポレオン末期のパリで大使を務め、その没落後1814年からのウィーン会議を主催、19世紀前半のウィーン体制時代をリードした。1848年三月革命で失脚した。

 オーストリアの外相として、ウィーン会議の議長となり、後に宰相となった。フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の国際政治の中心的存在として重きをなした。

ナポレオンと渡り合う

 アウステルリッツの戦いナポレオンに敗れたフランツ2世は、神聖ローマ帝国の消滅によってオーストリア皇帝となった。事実上、ナポレオン帝国の属国のような状態になるなかで、メッテルニヒをオーストリア大使としてパリに送り、その折衝に当たらせた。メッテルニヒはオーストリア皇帝フランツの娘マリア=ルイーズをナポレオンと結婚させ、その懐柔を図った。正妻ジョセフィーヌに子供がいないことから離婚したばかりのナポレオンは、ハプスブルク家の女性を妻に迎えることで皇帝としての箔がつくので大いによろこんだ。
 ナポレオンがモスクワ遠征を計画すると、メッテルニヒはオーストリアからも兵士を出す姿勢を見せながら、密かにナポレオンに和平を促した。そしてそれが受け容れられないと知って、ナポレオンを見限り、ロシア・プロイセンと同盟することを決断、1813年に反ナポレオンの同盟軍とナポレオン軍の決戦ライプツィヒの戦いとなり、同盟軍が勝利してナポレオン時代は実質終わりを告げることとなった。

ウィーン会議を主催

 1814年暮、ウィーンに各国代表が集結、ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の再建に向けての一大国際会議であるウィーン会議が開催された。ロシア、イギリス、プロイセン、オーストリアの四大国からなる委員会が任命され、満場一致でメッテルニヒがその議長に選出された。メッテルニヒが最初に行ったことは、フランス代表のタレーランを参加させることの同意を委員からとることだった。メッテルニヒの提案通り、タレーランはフランス代表として会議に参加することとなった。敗戦国の代表を最初から加えたところにメッテルニヒの現実的な外交手腕を見ることができる。 → 会議についてはウィーン会議の項を参照。

自由主義・ナショナリズムを弾圧

 オーストリア帝国はドイツ連邦の議長国としてその主導権を握り、連邦諸国内の自由主義ナショナリズム運動弾圧の中心にたち、全ヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の柱と見なされた。メッテルニヒは秘密警察を駆使して、反体制の取り締まりに当たり、その職種はヨーロッパ全域に及んだ。
 1817年のブルシェンシャフトの蜂起が起きると、その弾圧に努め、1819年にはドイツ連邦諸国に呼びかけ、カールスバードの決議をだして言論統制・大学に対する監視などの弾圧を強化した。

ウィーン体制の動揺

 さらに当時、スペイン・ポルトガルの混乱に乗じたラテン=アメリカの独立運動が活発になったが、それに対しては旧宗主国の介入を支持して、植民地支配の継続をはかろうとした。それに対してアメリカ合衆国はモンロー教書を発表してヨーロッパ旧勢力の新大陸への干渉を排除しようとし、イギリスもそれを支持した。こうしてイギリスは次第にウィーン体制から距離を置くようになった。また、ギリシア独立戦争(1821~29年)では、イギリス・フランス・ロシアはギリシアのオスマン帝国からの独立を支援したが、メッテルニヒはギリシアの民族独立がオーストリア支配下の民族独立運動を刺激することを恐れ、消極的であった。

1848年

 メッテルニヒ外交はヨーロッパ各国の外交を巧妙に乗り切ってきたが、各国の思惑の違いから、ウィーン体制の国際秩序は次第に崩れていった。そして、1848年革命の嵐が全ヨーロッパに吹きまくると、ウィーンでも三月革命が起こった。その打倒すべき最大の標的とされたメッテルニヒは、かろうじて「洗濯物を積んだ荷車に身を潜めて」ウィーンを脱出し、イギリスに亡命した。
 ロンドンに亡命したメッテルニヒは、革命情勢が収まるまで待ち、1851年にウィーンに戻った。それ以後、1859年まで生き延び、引退しながらも86才で亡くなるまで黒幕として活動を続けた。

メッテルニヒの悲劇

(引用)メッテルニヒは、皇帝、教会、軍隊、なかんずく秘密警察と検閲を利用しながら支配を続けた。メッテルニヒ自身によれば、「傾きかけた家につっかい棒をし、ひび割れをふせぎ、腐食をとめようとしていた」。・・・メッテルニヒとは、自分が緊急に必要な外科治療を避けて、睡眠薬と鎮痛剤を処方しているだけだ、ということを1840年代には悟っていたにちがいない。しかしメッテルニヒは時計の針を戻したあと、すっかり止めてしまった。メッテルニヒのつくりあげた「体制」は、厳格で柔軟性を欠いた専制に変わってしまった。メッテルニヒは、民族主義と自由主義の運動の嵐を乗りきることができると考え、小幅な改革で抑えられると確信していた。確かにメッテルニヒは君主制の弱点を熟知し、かかった病気の処方を心得ていたが、もはや手立てをとるだけの力を持ち合わせていなかった。これがメッテルニヒの悲劇である。結果は不可避だった。メッテルニヒは「貴人」の威儀を保ちつづけたが、最後には自分の「体制」が崩壊して、その残骸の下に埋もれてしまった。・・・<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.88-89>
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第12章1節 ア.ウィーン体制