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大陸封鎖令/ベルリン勅令

1806年、ナポレオンがベルリンで、ヨーロッパの征服地に対して出した命令で、イギリスとの貿易を禁止したもの。イギリスを経済封鎖し、孤立化と弱体化を狙ったが、ロシアなど従わない国もあり、効果はなかった。

 1805年10月、トラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れたため、ナポレオンのイギリス征服の夢を絶たれた。しかし、大陸ではその直後にアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破り、翌1806年10月のイエナの戦いではプロイセン軍を撃破し、ヨーロッパ大陸での覇者となった。こうして大陸制覇を達成したナポレオンは、残ったイギリスを屈服させる戦術を練った。
 ナポレオンは1806年11月21日、プロイセンの首都ベルリンに入城し、その地でヨーロッパの各国にフランス皇帝の命令として大陸封鎖令を発した。これはベルリン勅令ともいわれる。「勅令」とは皇帝が出した命令と言うこと。

大陸封鎖令の内容

 大陸封鎖令(ベルリン勅令)は、前文でイギリスの国際法無視などを非難、本文11条でイギリスの経済封鎖を宣言した。その内容は、占領地域にあるすべてのイギリス人は戦争捕虜とし、かれらの倉庫、商品を没収すること、イギリス本国・植民地から来るあらゆる船は、ヨーロッパの諸港に寄港させないこと。もし寄港するならば船体と積み荷を没収する、などである。さらに翌年末にはミラノで勅令を発し(ミラノ勅令)、イギリスの港に入港しようとする商船を没収することを加えた。これらを併せて「大陸封鎖令」という。

大陸封鎖令の矛盾点

 大陸封鎖令は、ナポレオンが全ヨーロッパに対して命じた、イギリスを経済的に孤立させ、その産業に打撃をあたえて間接的に弱体化させることを狙ったものであった。また、別の狙いとしてはイギリス工業製品がフランスに入ってこなくなることによって、フランスの諸工業の自立・発展を図ることもあった。しかし、それには次のような矛盾があり、狙い通りには行かなかった。
  1. フランス産業が大陸市場を独占することとなり、他の諸国の産業を圧迫し、搾取することとなった。
  2. 産業資本家にとっては有利だが、貿易商人にとっては不利なので国内の利害が対立することとなった。
  3. 農業国であるロシア・ポーランド・プロイセンなどは穀物をイギリスに輸出し、工業製品を輸入して経済が成り立っていたので、打撃が大きかった。<井上幸治『ナポレオン』 岩波新書 P.134 など>
 ナポレオン時代のフランスはまだ産業革命以前であり、イギリスの工業製品が入らないなかで、独自の工業製品を生み出すことは出来ないので、大陸封鎖令はフランス自身の首を絞める結果ともなった。他のヨーロッパ諸国にとってもイギリスとの貿易は不可欠であったので、実際には貿易が続けられ、効果は少なかった。 → フランスの産業革命

イギリスの対抗措置

 イギリスは、トラファルガーの海戦でフランス海軍を破り、その上陸を阻止したものの、ナポレオンの大陸封鎖令は自国の工業製品の輸出と、工業原料・穀物の輸入がストップすることになるので深刻な危機であった。そこで、イギリスは対抗措置として、ナポレオン制圧下の全ヨーロッパとフランス植民地を封鎖する措置に出た。このイギリスの逆封鎖によってアメリカ合衆国のフランスを含むヨーロッパとの貿易が妨害され、同時にアメリカの海運業にとって大きな打撃となるので、アメリカのイギリスに対する反発が強まった。

アメリカへの影響

 アメリカ合衆国の第3代大統領ジェファソンは、ナポレオン戦争に際して中立政策をとっていたが、大陸封鎖令が出されたことによってフランスとイギリスが互いに敵国の封鎖を宣言したので、中立維持は困難となった。フランスは、イギリス向けのアメリカ船を拿捕し、イギリスはそれに対抗してヨーロッパ大陸及びフランス植民地へのアメリカ船の入港を妨害した。実際にはフランス海軍は制海権がないのでアメリカ船にとって脅威ではなかったが、イギリス海軍は大西洋の制海権を握っていたので、アメリカの貿易と海運業にとって打撃となった。イギリスはさらに、アメリカ船の乗組員にイギリス海軍からの脱走兵が隠れているとの理由でアメリカ艦船への臨検を頻繁に行い、その際にアメリカ人を強制徴用することもあったので、アメリカの反英感情は次第に高まっていった。1808年に大統領となったマディソンのもとで、対英強硬派(タカ派)が台頭してアメリカ・イギリス関係はさらに悪化し、1812年にアメリカ議会がイギリスに宣戦布告して米英戦争(第2次独立戦争)が勃発した。

ロシアの離反

 ロシアは、フランスとの間でティルジット条約を締結し、大陸封鎖令を遵守することを約束するが、実際にはイギリスへの穀物輸出を続けていた。イギリスからの工業製品が入らなくなると困るからである。ナポレオンはそのようなロシアの違約を非難して、制裁のため1812年にロシア遠征軍を起こすが失敗し、没落の第一歩となる。結局、ナポレオンはイギリスに対する経済制裁という無理な手段をとったため、ロシアの離反を招き、大陸支配に失敗したと言える。
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ノートの参照
第11章3節 オ.ナポレオンの大陸支配