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黒人分離政策

奴隷解放宣言以後も続いた、南部諸州における黒人に対する差別を具体化した政策。

 奴隷解放宣言が出され、憲法修正第13条によって黒人奴隷制が廃止され、さらに1868年に施行された憲法修正第14条で黒人の市民権も認められ、1870年には憲法修正第15条で黒人投票権を制限することが禁止された。このように、憲法上は黒人の人格と自由が認められ、法的にも白人と平等が定められた。それによって、連邦議会や州議会での選挙権を行使し黒人が議員となることも始まった。  南北戦争終結後、北部から派遣された連邦軍が駐留する軍政下において南部の「再建」がすすみ、憲法修正条項を批准してアメリカ合衆国に南部諸州の復帰も実現していった。  しかし、南部の根強い黒人差別意識は強固に残っており、南部諸州は憲法規定を巧みに避けて納税額や識字能力を理由にして黒人投票権を制限するようになり、さらにさまざまな合法的な黒人取締法を州法によって成立させていった。
 特に、1870年代後半から、南部諸州で黒人分離政策が推進された。黒人の市民権に対して、1883年の連邦最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられたいろいろな特権(公民権)はそもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けない」として、1875年の公民権法を否定して以来、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、州法や市条例その他の法律によって法制化されていった。

「隔離はしても平等」

プレッシー判決 ルイジアナ州では1890年に制定した州法で、白人と黒人が利用する列車の車両を分離した。それに対して、ホーマー=プレッシーという黒人男性が公民権支援団体の支援を受けて反対運動に立ち上がり、白人専用車牢に乗り込んで坐り、黒人専用車に移れという車掌の支持を拒否して逮捕された。この事件は最高裁で争われることとなり、1896年5月18日に判決が下された。最高裁判所が下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)は黒人を分離しても、待遇が同じであれば平等であるというものであった。この「隔離はしても平等」"separate but equal" なら差別ではないとする有名な原理が裁判で確立したことによって、人種差別に法的支柱を与え、これを背後から助長したのである。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.144>
 この「プレッシー判決」結果、南部では劇場・公衆トイレ・刑務所・公立学校・公園・ホテルなどあらゆる公共施設で黒人用と白人用の使節が分離されることになった。このような日常的な黒人差別に対し、1950年代に黒人によるバス・ボイコット運動などの戦いが始まった。
ブラウン判決 1954年、連邦最高裁のアール=ウォーレン首席判事は、公教育において施設を白人用と黒人用に分離するのは不平等であると判断し、人種分離政策は憲法違反であるという「ブラウン判決」が出した。これは画期的な司法判断であったが、世論調査ではこの判決には南部白人の約80%が反対するという状態であった。
 しかし、60年代の公民権運動は、63年のキング牧師に指導された25万人によるワシントン大行進という大運道都なり、黒人差別反対の動きはケネディ大統領を動かし、ミシシッピー州立大学が黒人学生の入学を拒否したことに対して連邦軍を投入するなどの介入を行った。次のジョンソン大統領の時、1964年に公民権法が成立し、黒人に対する分離は違法であることが確定した。
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第12章3節 ウ.工業国アメリカの誕生