印刷 | 通常画面に戻る |

マイソール戦争

18世紀後半、イギリスとマイソール王国の4度に及ぶ戦争。1799年にマイソール王国が敗れ、イギリスの植民地支配が南インドに及んだ。

18世紀後半、イギリスのインド植民地拡大に対し、最も激しく抵抗したのが南インドのマイソール王国であった。マイソール王国はヴィジャヤナガル王国の崩壊後、その後継国家として南インドに成立した。ムガル帝国の衰微に乗じてイスラーム教徒のハイダル=アリーとティプー=スルタンの親子が農業を奨励し、産業の近代化を図るなどにょって国力を国力を再建した。マドラスを拠点として南インドに進出してきたイギリスに激しく抵抗し、1767年から4次にわたるイギリスとの戦争を展開、1780年には8万の軍でマドラスに迫り、イギリス軍に脅威を与えた。イギリス(ベンガル総督)は1799年総攻撃をかけ、王都スリランガパトラムを落とし、ティプー=スルタンは戦死して戦争が終わり、イギリスは南インドに勢力を拡大した。<以下、渡辺建夫『インド最後の王―ティプー・スルタンの生涯』1980年 晶文社 による>

マイソール戦争の経過

 マイソール戦争は教科書ではイギリスのインド植民地化の過程で起こった戦争の一つに並べられているだけであるが、実に30年以上にわたって繰り広げられ、またその時期がアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオンの登場の時期に当たっており、イギリスとフランスの対立という国際情勢と密接に関係していた。またインドの封建的権力がイギリスという資本主義国と互角に戦った事実は、結局は敗れ去っていったが、後の日本を含むアジアの状況を考える上で重要な示唆を与えてくれると思われるので、やや詳しく見てみよう。
・第一次マイソール戦争 1767~69年 ヒンドゥー教国であったマイソール王国でイスラーム教徒のハイダル=アリーが実権を握り、勢力を拡張していることに対し、宗主国を自認するマラーター同盟と、北に隣接するハイデラバード王国がイギリス東インド会社軍と結んで三方から攻撃を加えた。これに対してハイダル=アリーはマラーター同盟・ハイデラバードには領土の割譲や人質を出すなどの妥協をしながら巧みな外交折衝で講和に持ち込み、的をイギリスだけに絞り、マドラス攻撃を目指した。マイソール軍のマドラス総攻撃を前にイギリスは妥協し、69年、捕虜交換と攻守同盟を結んで講和した。
 この後、マラータ同盟の内紛にイギリス・フランスが介入して、第一次マラーター戦争(1775~82)が起きてマラーター同盟は弱体化したため、マイソール王国は南インドで最大の勢力となった。イギリスもベンガル地方での徴税権を獲得するなどインド植民地化を進めていたが、一方で1775年にアメリカ独立戦争が始まり、その情勢はインドにも影響を及ぼした。
・第二次マイソール戦争 1780~84年 マイソール王国のハイダル=アリーはフランスやマラーター同盟と結んでイギリスをたたく機会が来たと判断し、1780年に宣戦布告してマドラスに総攻撃を開始した。カルカッタからマドラスに向かうイギリスの援軍がマイソール軍に大敗を喫するなど、戦いはマイソール軍の優勢で進んだ。マドラスのイギリス人は艦船で海上に逃れるなど危機が迫った。イギリスはカルカッタのベンガル総督ヘースティングスがマラーター同盟とマイソール王国の離反を画策、さらにボンベイから東インド会社軍を派遣して西側からマイソール王国を攻撃させるなど対応に追われた。1782年に陣中でハイダル=アリーが死去し、その子ティプー=スルタンは戦争を継続したが、フランスが1783年のパリ条約(1783)でイギリスと講和してインドでの戦争から脱落したため、戦線を縮小せざるを得なくなり、翌年マンガロールで講和した。ティプー=スルタンは残虐ともいえる捕虜の扱いや、果敢な軍事行動でイギリス側を恐怖に陥れ、講和交渉を有利に進め、ヘースティングスをして「もっとも屈辱的な講和だ」と言わしめるような、イギリスにとって何も得るもののない講和として終わった。
 新たなマイソール王国の指導者となったティプー=スルタンもイギリスの国力の高さを認識せざるを得なかった。彼は国内の土地制度の改革、近代産業の育成などに着手し、フランスから技術者を招いて兵器の近代化にも着手した。さらに1785年にはオスマン帝国のスルタンに使節を派遣してイスラーム国家としての同盟を申し込み、1788年にはフランスのルイ16世に使節を派遣して対イギリスの攻守同盟締結を申し出ている。これはフランス革命勃発直前という情勢であったため結実しなかったが、ティプー=スルタンが幅広い国際感覚を持っていたことを示している。
・第三次マイソール戦争 1790~92年 新たにベンガル総督となったコーンウォリス(アメリカ独立戦争でワシントン軍に敗れた将軍)は、マイソール王国のティプー=スルタンに対する全面的な戦争を準備した。1790年、マイソール王国が南部のヒンドゥー勢力攻撃に出たことを口実に、イギリス軍は対マイソール軍事作戦を開始した。マラーター同盟、ハイデラバードの軍も加えたイギリス軍は三方からマイソール王国に侵攻、ついにカーヴェリー川の中州にある首都スリランガパトラム城を包囲した。ティプー=スルタンはなおもフランスの援軍を期待したが、革命最中のフランスにはその余力はなく、92年2月イギリス軍は総攻撃、1万5千の犠牲(大部分はインド人傭兵)を出しながらティプー=スルタンを降伏させた。マイソール側は国土の割譲、賠償金の支払い、二人の皇子を人質とすることなどの条件で降伏に同意した。このとき人質となった二人の皇子を受け取るコーンウォリスを描いた絵が、現在もマドラス(チェンナイ)の博物館に残されている。
 ティプー=スルタンはイギリスへの復讐の機会をねらっていた。そんなおり、1794年にマイソール領内で雇われていたフランス人のなかに本国に倣ったジャコバン=クラブが結成されると、なんとティプー=スルタンはその名誉会員となり、フランスへの再接近を試みた。そのため当時フランス領のインド洋のモーリシャス諸島の守備隊を中継して総裁政府に対し、共同してイギリス打倒に当たろうと申し込むため使節を派遣した。その話はインド在留のイギリス人にも伝わり、折からのナポレオンのエジプト遠征と重ね合わされて、フランス軍のインド来援があるかもしれないと大きな動揺が起こった。事実ティプー=スルタンの要請はナポレオンの耳に入り、彼もインドのイギリス軍を直接たたく野心を抱き、ティプー=スルタンに同意の返事を書いた。しかしこの手紙は届かなかった。その前にナポレオン海軍がアブキール湾でイギリス海軍に敗れてしまったのである。
・第四次マイソール戦争 1799年 イギリスのベンガル総督ウェルズリはマイソール王国がフランス共和国と同盟することをおそれ、総攻撃開始を決意し、1799年2月遠征軍を発した。イギリス軍はマドラスとボンベイの両面から攻撃、マラーター同盟など、イギリスに同調する諸侯も加わった。またマイソール領内のヒンドゥー教徒も、いままでおさえられていたイスラーム政権にたいする反感を表に出し、イギリス軍を「解放軍」として歓迎した。マイソール軍の士気も低下し、ティプー=スルタンも外交上の努力が好転しないことから戦機を失することとなり、マルバリの会戦で大敗し、首都スリランガパトラム城に籠もった。4月から総攻撃が開始され、イギリス軍の示す降伏条件を拒否したティプー=スルタンは5月4日銃弾に当たって死んた。
 マイソール王国はイギリスに降伏し、イギリスの南インド支配は確立した。その後、マイソール王国ではイギリスによってヒンドゥー教徒の前王家が復位したが、実質的な独立を失って藩王国としてイギリスに従属することとなる。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第13章2節 ア.西欧勢力の進出とインドの植民地化
書籍案内
インド最後の王 表紙
渡辺建夫
『インド最後の王―ティプー・スルタンの生涯』
1980年 晶文社