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綿織物/木綿(中国)

中国では12世紀ごろから綿花の栽培が始まり、15世紀ごろから江南での主要な産業に発展し南京木綿と言われた。

 インド原産の綿花の栽培と、綿糸・綿織物にする技術がベトナムを経て中国に伝えられたのは宋代末期の12世紀であったが、元代を通じて栽培が広がり、明代になると政府の勧奨もあってほぼ中国全土に普及し、綿布はそれまでの麻布にかわって大衆的日常衣料となった。15,6世紀になると綿布は全国的な市場を形成するようになり、特に江南の長江下流(江浙地方)の蘇州、松江府の綿業が発達した。長江下流で生産される綿織物の原料の綿花は華北から大運河を使って運ばれるようになったが、この地の綿業の発達は華北からの綿花だけでは不足し、周辺の農家が米作りをやめて綿花栽培に転業したため、この地域の米作量は下落して食料輸入地帯となり、穀物生産の中心は長江中流(湖広地方)に移ることとなる。

南京木綿

 中国の長江下流で生産され、輸出された良質の綿織物は日本でも南京木綿として知られている。明代に長江下流域で盛んになった綿織物の中心地は松江府と言われる、現在の上海付近であった。宋応星の『天工開物』には木綿と綿織物技術についての説明が図入りでされている。
ナンキーン この地の綿織物は肌触りがよく、美しかったので珍重され、清朝公認の貿易港であった広州の公行によって、東南アジアやイギリス、アメリカにも輸出された。英語では、中国産の高級綿織物を、nankeen と言うのは、南京付近がその産地だったからである。19世紀にイギリスが中国に対して自国の工場製綿織物(ランカシャー綿)を輸出しようとしたが、中国では南京木綿のほうが質がよく、遠隔地から運ばれるものより価格も安かったので、売り込みに失敗する。

イギリス製綿織物に勝つ

 中国の輸出品の中心は茶であったが、南京木綿も重要な輸出品となり、清朝は貿易港を広州一港に限定し、その利益を独占した。当初はイギリスの一方的な輸入超過であったので、産業革命進展後のイギリスは自国の綿工業で生産した綿織物を中国に輸出し、銀の流出を防ごうとした。しかしイギリスの工場制綿織物(ランカシャー綿布)は質において南京木綿に劣り、価格においてもイギリスからの運賃がかさむので割高になり、思うように売れなかった。そこでイギリスは綿織物に代わって中国に売りつけた(密輸した)のがアヘンであった。 → 三角貿易

インド産綿布

東インド会社を通じてイギリスに入ってきたが産業革命で逆転した。

 綿布は綿花を原料にした布で、木綿(もめん)・綿織物ともう。綿花を栽培し綿織物をつくる技術はインダス文明がその起源であり、長くインドの特産品であった。吸湿性がよくがよく高温多湿地帯に適した衣料であるので、インドからムスリム商人の手で東西にもたらされた。木綿を英語ではコットン cotton というが、それはアラビア語のクトゥンからきたものである。
 十字軍時代にはヨーロッパにもたらされたが、本格的にヨーロッパで広がったのは16世紀にポルトガル商人によってインドからもたらされてからであり、綿織物(綿布)はその積み出し港の地名であるカリカットからキャラコ(キャリコ)といわれるようになった。

イギリス東インド会社のインド産綿布輸入

 17世紀にはイギリス東インド会社がインドの綿織物を積極的に買い取り、本国に持ち帰った。イギリス東インド会社はオランダ、ポルトガルに対抗して香料諸島に進出しようとしたが、1623年のアンボイナ事件で敗れたこともあって、その目標をインドに転換した。インドでは香料を大量に手に入れることができなかったので、当時世界最大の綿織物業地帯であり、アジア各地に輸出されていたインド綿布を持ち帰ろうとした。その後、東インド会社にとって中国の茶と並んで、インドの綿織物が大きな比重を占めることとなった。

インド綿織物業の破壊

 18世紀になるとイギリス国内で都市住民を中心に綿織物の需要が急増し、イギリスは綿織物の国内生産に乗り出し、原料の綿花を最初は西インドに、次いでインドに求めることとなった。産業革命期になってイギリスの木綿工業生産は爆発的に増加し、イギリス製綿布(ランカシャー綿布)はインドにも輸出されるようになり、安価な工場制綿布はたちまちインド産綿布を圧倒し、インドは原料の綿花の供給地となって関係は逆転した。そのためインドでは農村の綿織物家内工業は破壊され、デカン高原は綿花のモノカルチャー地帯に転落し、貧困化が進んだ。 → イギリス産業革命のインドへの影響

綿織物/綿布(イギリス)

インド原産の綿花を原料とした織物。イギリス産業革命の最初の主要商品となる。

 綿織物(綿布、木綿、コットン)は綿花を原料とした綿糸を織り上げた布地で、インドが原産であった。長い間インドでは農村の家内工業で生産されていたが、17世紀からイギリスの東インド会社がインド産綿布を本国イギリスにもたらすようになると、そのなめらかな肌触りと美しい模様でたちまち大流行し、毛織物を圧倒するようになった。当時イギリスでは綿織物はインドの主な積み出し港だったカリカットがなまってキャラコ(キャリコ)と言われ、毛織物業者は盛んにその輸入を阻止しようとした(キャラコ論争)。しかし綿織物の需要はさらに増加し、イギリスでも綿織物を生産するようになった。
 綿織物の利点は、毛織物に比べて、安く、鮮やかな色の模様や文字をプリントすることができ、決定的なことは洗濯が容易であったことである。じっさい、綿織物が普及して、イギリス人の生活は急速に清潔になり、それが平均寿命の延長につながったと見られている。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.161>

イギリスの綿織物とインド

 18世紀中ごろから始まるイギリスの産業革命木綿工業から発展し、大量に生産されるようになった工場制の綿織物、いわゆるランカシャー綿布は国内市場で飽和状態となり、イギリス殖民地に向けて出荷されるようになった。安いイギリス工業製綿織物が大量に流入するようになったインドでは、農村の家内工業を破壊し、さらにダッカ(現バングラデシュ)などの綿織物産地は急速に衰え、衰微した。そのかわり、東インド会社はインドの綿花を原料として輸入するようになった。 → イギリス産業革命のインドへの影響

イギリスの綿織物と中国

 イギリスは中国からを購入しその代価として銀を支払うという一方的な輸入超過になっていたので、それを改善しようとして工場製の綿織物を売り込もうとしたが、中国では長江下流の南京を中心とした綿業地帯が発達しており(この地方の綿織物は南京木綿といわれた)、遠い距離を運ぶイギリス産綿織物は価格でも割高になったため、インドのようには売れなかった。そこでイギリスはインド産のアヘンを中国に密輸出し、銀の回収を図った。こうして19世紀中ごろまでに、イギリスはインドと中国を結ぶ三角貿易を成立させ、さらに清朝の採る朝貢貿易体制(カントン体制)を排除して自由貿易を押しつける圧力を強めるようになった。清朝政府はアヘン貿易を禁止したが密貿易は絶えず、逆に銀が大量に流出するようになり、財政難の原因となり、アヘン中毒者の増大と共に大きな問題となってきた。そこで起こったのが1840年のアヘン戦争であった。
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ノートの参照
7章1節 オ.明後期の社会と文化
第11章1節 産業革命