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イギリスのインド植民地支配/インドの民族運動(19世紀後半)

19世紀後半以降、帝国主義時代のイギリスのインド支配に対する民族の自治、さらに独立を求める運動が起こった。

 イギリスは18世紀中頃からインド植民地支配を推し進め、1857年のインド大反乱を武力で鎮圧してほぼその体制を完成させた。

インド帝国の成立

 イギリスは1871年からイギリス国王がインド皇帝を兼ねるインド帝国として、インドを直接統治するようになった。それ以前の東インド会社によるインド植民地支配の段階から、道路など基盤の整備とともに、警察制度の整備と英語教育に力を入れた。特に教育は1835年より英語で行うこととし、官庁の文書もそれまでのペルシア語と各地方語の使用を停止し、すべて英語で作成することを命じた。役人になるためには英語が使えなければならないので、英語は急速に普及した。それまでインドには統一言語の発達が遅れていたことも、英語の普及の理由であった。またインド社会に残る、ヒンドゥー教信仰による嬰児殺し、幼児婚、寡婦の殉死(サティ)などを禁止する立法措置をとった。これらはキリスト教の布教と結びついていたが、必ずしもインド民衆には受け入れられなかった。またイギリスはインド統治にあたって、ヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム)を利用した。 → イギリスの分割統治

帝国主義段階のインド支配

 19世紀末の帝国主義段階に入り、イギリスの植民地支配はさらに強化され、アフガニスタン、ビルマへの支配の拡大とともに、インドの鉄道建設などを進め、綿花などの産品を独占して利益を上げ、それに反発するインド民衆を弾圧するための差別法を次々と制定した。たとえば、1878年の「土着語出版法」(インド人の出版、言論の弾圧で「箝口令」と言われた。)、「武器取締法」(インド人の武器所持を禁じる)などである。また1883年には司法上の差別をなくしインド人判事がイギリス人を裁けるようにした法案が、イギリス人団体の反対で廃案になった。

インドの反英闘争の始まり

   これらの差別的な統治法は、イギリス植民地当局のインド人に対する蔑視の表れであるとして、激しい反対の声が起こり、1883年バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。これが言論による反英闘争の最初の組織となった。背景には、イギリスがインド支配のために進めた英語教育を通して、西洋の人権思想や政治的な権利を知った知識人の中に、インド社会の変革の必要を感じてヒンドゥー教改革運動が起こってきたことがあげられる。

イギリスのインド支配強化とそれに対する反発

 イギリスは全インド国民協議会に対抗して対英協調組織として1885年にはインド国民会議を開催した。会議に参加した人びとは国民会議派と言われる政治勢力となり、当初はインドの知識人、上層階級の立場でイギリスの協力者に留まっていたが、1905年のベンガル分割令に対する反対運動から、イギリスの思惑を超えて反英闘争の中心組織に転化し、四大綱領をその闘争の理念として掲げるに至る。イギリスはイスラーム教徒の組織化を支援するなど、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとする。第一次世界大戦が始まるとイギリスは戦後の独立を約束して戦争協力を取り付け、多数のインド兵がヨーロッパ戦線に送られたが、戦後その約束は守られず、ガンディーらを中心とした独立運動が本格化することとなる。
 → インドの反英闘争
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ノートの参照
第14章3節 オ.インドでの民族運動の形成
第15章3節 エ.インドでの民族運動の展開
書籍案内
インド独立史 表紙
森本達雄
『インド独立史』
1978 中公新書