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インド帝国

1877年、イギリスのヴィクトリア女王を皇帝として成立した植民地帝国。インド大反乱を鎮圧した1858年、東インド会社を解散させると共にムガル帝国を滅ぼし、実質的にインド直接統治を開始していたイギリスが、ヴクトリア女王がインド皇帝を兼ねる形を採ってその支配を完成させた。

 イギリスインド植民地支配は、1857年のインド大反乱の勃発で大きく揺らいだが、ようやく鎮圧に成功すると、1858年8月に「インド統治法」を制定し、従来の東インド会社を通しての間接統治から、イギリス国王が直接統治を行う体制に改めた。これがイギリスによるインド統治の実質的な開始であり、そのことは同年11月1日のヴィクトリア女王の宣言によって明らかにされた。ヴィクトリア女王の宣言は次のような内容であった。 → イギリスのインド植民地支配

資料 1858年のヴィクトリア女王の宣言

神の恵みにより、大ブリテン、アイルランド、ならびにヨーロッパ(注1)・アジア・アフリカとオーストロアジア(注2)における植民地および属領の女王にして、信仰の守護者たるヴィクトリア。(中略)
 ここにわれわれはインドの藩王に対し、東インド会社の権威により、またその下で彼らとの間になされたあらゆる条約や契約がわれわれにより承認され、厳正に遵守されることを宣言し、かつ彼らもそれを遵守することを望むものである。(中略)
 われわれは諸藩王の権利・威信・名誉をわれわれのもの同様に尊重する。また彼らが、われわれ自身の臣民同様に国内の平安と良き統治によってのみ確保されるべき繁栄と社会的向上を享受することを願望する。
 われわれは、われわれを他のすべての臣民に結びつけている同一の、義務を果たすべき責務によって、わがインド領内の住民と結びつけられているものと位置づけ、全能の神の祝福により、それらの義務を誠実かつ良心をもって果たすものである。
 われわれはキリスト教の真理を固く信じ、感謝の念を持って信仰の慰めを認めつつ、同様にいかなるわが臣民に対してもわれわれの信仰を強要する権利や願望を否認する。(中略)(中略)
 また、民族や宗教が何であれ、わが臣民はわれわれの公務において自由かつ隔てなく職を得られ、その職務は彼の教育、能力および、しかるべく示される誠意によって資格づけられることが、われらの更なる意思である。
 われわれは、インドの住民たちがその先祖から残された土地に対する深い愛着の念を理解し、尊重する。われわれはまた国家の公正な要請に従いつつ、関連するあらゆる権利とともにそれらの土地を擁護するべく願望する。さらに、法の制定と実施に当たり、全体としてインド古来の権利・慣例・慣習がしかるべく尊重されるべきであると考える。
(注1)ヨーロッパにあるイギリス領とはジブラルタルマルタ島  (注2)オーストラリアニュージーランド
<歴史学研究会編『世界史史料8』岩波書店 p.40-41>

ヴィクトリア女王、インド皇帝を兼ねる

 イギリスはさらにディズレーリ首相のもとで、1877年1月1日、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによって、インド帝国が成立した。これは、19世紀末のイギリスの一連の帝国主義政策による植民地支配の典型的な事例である。
 インドのデリーで行われたヴィクトリア女王のインド皇帝としての戴冠式の様子は、インド総督のリットン卿からロンドンの女王に次のように報告された。

資料 1877年のヴィクトリア女王インド皇帝即位

1877年1月1日、帝国集会において。総督から女王陛下へ奏上いたします。インド女帝としての女王陛下の称号は、本日正午デリー平原にて、最上の威厳と荘厳さをもって宣言されました。集会の出席者は、随行団を従えた50名のインド土侯の他、全インドから集結した貴族たちの大集団であり、ヘラート(アフガニスタン)の汗(カーン)や将軍、ネパール、ヤルカンド(ウィグル)、シャム(タイ)、マスカットの大使、ゴアの知事と領事団であり、さらにはイギリス領インドにおけるあらゆる知事、副知事、および軍事、行政、司法各部の長が名をつらねました。その上、白人と現地人とを問わず、あらゆる階級に属する女王陛下の臣民が、膨大な数で参集いたいておりました。(下略)<歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店 p.227-228>

イギリスのインド支配

 この後、インドはイギリス植民地帝国の最も重要な一部として、その帝国主義政策の基盤となり、綿花アヘンなどの商品作物生産に特化されていった。
 このイギリスの植民地支配は、1947年のインド・パキスタンの独立まで続くが、その間、インドの民族運動が次第に強まっていく。

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