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北京条約(清-英仏)

1860年、アロー戦争の結果、清が英仏と結んだ条約。

1860年、アロー戦争の講和条約として締結された天津条約の批准書交換のため北京に向かった英仏の使節が、清側の大沽砲台から砲撃されたので、報復と称して英仏連合軍が北京に侵入し清朝政府に、圧力をかけた。その際、英仏軍は北京郊外の円明園を焼き討ちした。清朝皇帝の咸豊帝は熱河に逃亡。残った清朝政府との間で天津条約は批准され、新たに北京条約が締結された。内容は天津条約に変更を加えさらに英仏に有利にしたものであった。その主な内容は次の通り。
1)賠償金を800万両とする。
2)イギリスに九竜半島南部を割譲する。
3)天津条約で開港場とされたところに加えて天津を開港場とする。
ここで割譲された九竜半島南部は、南京条約で割譲された香港とともにイギリス領香港の一部となった。この北京条約は、南京条約が中国の半植民地化の第1弾、天津条約が第2弾であるとすれば、第3弾にあたり、さらに権益を拡大することとなった。なお、アメリカとロシアも同様の条約を締結したが、特にロシアとの北京条約では、ロシアに沿海州を割譲した。 
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ノートの参照
第13章3節 東アジアの激動