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義和団/義和団事件/北清事変

1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。新潮が同調して列強に宣戦布告したが、英米仏露日など8ヵ国連合軍に敗れた。それにより列強の帝国主義的中国分割が進んだ。

 1900年、義和団の蜂起に押されて清朝政府が列強に宣戦布告し、8ヵ国連合軍との戦争に発展した。北清事変ともいう。敗れた清朝は列強と北京議定書を締結、中国分割がさらに進んだ。アフリカにおける南ア戦争、ラテンアメリカにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環であった。

19世紀末の中国

 日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為等の戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだなどと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。
 そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。

義和団

 義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に終結して蜂起し、義和団事件となった。背景には、当時の華北の黄河流域で、たびたび洪水が起き、民衆生活に大きな犠牲が出ているにもかかわらず、清朝が無策であったことも挙げられる。

義和団事件の勃発

 1900年6月、蜂起した義和団は、たちまち北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。

8ヶ国連合軍の北京出兵

 これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に入り義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。

北京議定書の調印

 北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年7月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。
 北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。

その後の清朝政府

 西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができず、辛亥革命、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。 
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ノートの参照
第14章2節 イ.日露対立と列強
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三石善吉
『中国、一九〇〇年』
1996 中公新書