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モロッコ保護国化

1912年、フランスがモロッコとの間でフェス条約を締結し保護国化した。

 フランスはモロッコに対して帝国主義植民地分割を進め、1904年英仏協商ではイギリスからモロッコ権益を承認され、第1次モロッコ事件後のアルヘシラス会議でも列強に対してモロッコにおける優位を認められた。それに不満を持つドイツのヴィルヘルム2世が1911年、第2次モロッコ事件を引き起こしたが、ドイツに対してコンゴの一部を割譲することでモロッコ支配権を確保した。それをうけて1912年にフランスはモロッコのアラウィー朝スルタンとの間でフェス条約を締結し、保護国化を完了した。これによってアラウィー朝スルタンは地位を保全されて存続したが、外交権・軍事権・財政権などをフランスに握られ、主権を喪失した。モロッコは国土の大部分をフランスが支配し、北部のリーフ地方と西サハラはスペイン支配権に分割された。

モロッコの民族の抵抗運動

 フランスによる保護国化、およびフランスとスペインによる分割支配に対するモロッコの民族的抵抗が直ちに開始された。特にスペイン領のリーフ地方では、1920年からアブデル=カリムに指導された抵抗運動、リーフ戦争が始まり、リーフ共和国の独立を宣言、その勢いはフランス領に及んできた。1925年、フランスとスペインは共同作戦を行ってアブデル=カリムの独立戦争を押さえにかかり、翌年ようやく制圧した。その後もモロッコではフランス及びスペインに対する断続的な抵抗が続き、フランス軍は外人部隊を投入しその対策に翻弄された。 → モロッコ独立

フェス条約 モロッコの保護国化

(引用)1912年3月30日フランス政府は全く人望を失って没落は時間の問題なっていたムライ・ハフイド王とフェズで保護国条約を締結した。両国は
……モロッコ国の秩序と治安を維持すべき規則的制度を樹立して国内改革を行い、経済的発展を可能なら占めるため……外交、軍事の権はフランス総督之を行い、同総督はフランス政府の名に於いてモロッコ王に依って発布さるべき法令を賛否し、公布することを約し、そして……フランス政府はモロッコ王の人身及び王位を脅かす危険一切に対してモロッコ王を支援し、この支援は王の後継者に同じく与えられるものとす。
 この条約はモロッコの民衆の感情を満足させなかった。モロッコ人民は自由を愛し、自らを自由の民と呼び、そして自由への執着のため安定した大きな社会組織に必要な規則さえ我慢し得ないといわれている。しかるに自由はこのような古型の社会では西欧社会でもそうであったように独立の観念と共にある。彼らはまた強い名誉感、或いは面目の感情を持っている。更にモロッコは回教国で、フランスは基督公教(カトリシスム)の国で、この二つの宗教は歴史的に犬猿の仲にある。かくしてフランスのこの新しい保護国には保護を快しとしない民がすくなくはなかった。・・・(以下、モロッコにおける保護国化に対する抵抗運動について述べている)<山田吉彦『モロッコ』1951 岩波新書 p.44-5 著者の山田吉彦はきだ・みのるのもう一つの筆名>

モロッコと韓国の保護国化

 1912年のフェス条約の条文は、保護国化とは「秩序と治安の維持、国内改革、経済的発展」をはかり、王位を守るためのものだという「大義名分」が上げられている。これは、日本が韓国を保護国化する過程で締結された日韓協約と共通している。例えば、1904年の日韓議定書では第二条で「大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以て安全康寧ならしむ事」とあり、1905年の日韓協約(いわゆる保護条約)は前文で「……韓国の富強の実を認むる時に至るまでこの目的を以て」条約を締結すると言っている。「保護国化」の欺瞞性を共通してみることが出来る。<日韓協約の条文は山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.151,180 による>

フランスの統治

 モロッコ総督に任命されたリオテー将軍は、一種の分割統治を実施した。保護国モロッコを行政的に二つの地域に分け、一つは官吏の官政区で統制には官吏を当て、他は軍人が統制する軍管政区で軍人が統制する。支配の実際に当たるのはいずれもモロッコのスルタンの官吏であるが、官吏も軍人もフランス人が統制する。スルタンはモロッコの宗教上の最高位にありフランスからその地位を保障される主権者であるが、対外的、軍事的には何の権力も持っていない。スルタンにはフランス人顧問がつき、実権を持つのは総督であった。<山田吉彦『モロッコ』1951 岩波新書 p.100>

Episode 総督リオテーの墓

 1939年にモロッコを訪れた文化人類学者山田吉彦(戦後はきだ・みのるという筆名で小説家となる)の紀行文に、モロッコの首都ラバトで総督リオテー元帥の廟を訪ねた記事がある。
(引用)廟は高い木立に包まれ、その間を砂利道が廟の正面に通じている。仰いで見ると鮮緑の葉は空からの烈しい光線を受けて眩しく光り、地にゆらく葉影も緑に濡れていないかと思われるほど若葉が重り合って揺いでいる。砂利道を進んでいくと、廟の正面の階で一人のモロッコ人が跪坐して祈っているのが見える。彼はアルラーに祈るときのように上半身を伏したり起こしたりしている。これは奇妙な印象を私に与えた。此の回教徒が祈っている廟には熱烈なカトリック信者であったリオテーの鉛の棺に収められた躯が、ローレーヌから移されて葬られているのだ。・・・
これはモロッコの民間信仰には聖者(マラブー)信仰があり、聖者の墓が祈りの対象になっていたのであり、このモロッコ人もリオテー廟を聖者廟と錯覚したのだろう。聖者信仰がイスラーム教徒土着信仰、あるいは基督教などの異教と混淆するという、混淆宗教となる傾向の現れと見ることが出来る。<山田吉彦『モロッコ』1951 岩波新書 p.28-29>