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英露協商

1907年成立した、イギリスとロシアの帝国主義的支配地域分割協定。

バルカン半島から中東方面に進出してきたドイツに対抗するため、イラン・アフガニスタン・チベットにおけるイギリス・ロシア両国の対立を解消し、その勢力圏を調整したもの。露仏同盟英仏協商とともに三国協商が成立し、三国同盟と対抗する協商国陣営が形成され、第1次世界大戦の遠因となった。ドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を推し進め、3B政策にもとづいて中東方面に進出してきたことを受け、イギリスがロシアと提携してその阻止を狙った。またロシアは日露戦争の後、極東での進出をあきらめ、再びバルカン方面に目を向けるようになり、ドイツ・オーストリアとの対立が強まることが予測されたため、イギリスとの提携に転換することにした。ロシアは一方で日本とも提携することに転換し、同年、日露協商を成立させている。このように、それまでイラン・アフガニスタン・チベットで対立をくり返していた両国が、急接近したもので、8月31日ペテルブルクで密かに調印した後、9月4日にイラン(当時はペルシア)のテヘランで突如世界に発表された。

英露協商の意義と内容

 中東、東アジアで対立を続けていたイギリスとロシアが、ドイツの台頭と、日露戦争でのロシアの敗北を契機として手を結び、帝国主義的世界分割を調整したのが英露協商である。内容は、
イランカージャール朝)では三地域に分け、北部をロシア、東部をイギリスそれぞれの勢力範囲とし、中部は中立地帯とした。
アフガニスタンはイギリスの勢力圏とした(イギリスがロシアを攻撃する場合の基地とはしないことが条件)。
チベットは中国(清朝)の支配権を認め相互に内政不干渉を決めた。

イランとアフガニスタン

 英露協商は「帝国主義国どうしの国際的縄張り争いの調整」である。内容的にはロシアはイランの主要都市を含む広大な地域を得たのに対して、イギリスはアフガニスタンおよび東部イランを植民地インド支配の緩衝地帯として確保したにすぎず、ロシア側に有利であった。イギリスとしてはドイツの中東方面への進出を防ぐためロシアの力を利用しようとしたのである。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.71-72>
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ノートの参照
第14章2節 エ.列強の二極分化とバルカン危機