威海衛
中国、山東半島の港で、清の北洋艦隊の根拠地。日清戦争の威海衛の戦いで敗れる。1898年、イギリスが清から租借し、東洋艦隊の拠点とした。

威海衛の位置
日清戦争 北洋艦隊の壊滅
日清戦争における日本海軍との海戦、1894年9月17日の黄海海戦で敗れた北洋艦隊は、司令官(北洋水師)丁汝昌の判断で、拠点港としていた威海衛に待避した。翌年1月、日本軍は海陸から威海衛を総攻撃、北洋艦隊の主力艦定遠などを砲撃し、丁汝昌は北京の李鴻章に降伏する旨を打電し、服毒自殺、これによって北洋艦隊は壊滅した。3月には遼河会戦での勝利、澎湖島への上陸と日本軍の優勢が決定的となり、下関講和会議となり、4月下関条約が締結されて終戦となった。参考 戦場ジャーナリスト国木田独歩
この日清戦争の決定的な転換点となった威海衛の戦闘に、国民新聞の従軍記者として日本海軍の軍艦千代田に乗船した国木田独歩は、詳しく威海衛の戦いを報告した。これは『愛弟通信』(同じく国民新聞記者で日本に残っていた弟収二への手紙という体裁を採った)として紙面を飾り、国木田独歩(まだ哲夫を名のっていた)をジャーナリストとして有名にし、後に『武蔵野』など自然主義の作家として知られるようになって、本として出版された。独歩は、いわば戦場ジャーナリストとして世に出たのだった。<国木田独歩『愛弟通信』1990 岩波文庫> → 北洋艦隊の項参照1898年、イギリスが租借
1898年、列強による中国分割の進む中で、イギリスは威海衛を25年間の租借地として清朝政府に認めさせ、イギリス東洋艦隊の基地とし、さらに山東半島を勢力圏とする際の拠点とした。1930年に中国に返還された。