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中国分割

アヘン戦争でのイギリスにはじまる列強の中国進出は、不平等条約で半植民地化を進めた。さらに日清戦争後の1898年、英仏露独日の帝国主義諸国は、租借地の獲得や鉄道敷設権・鉱山採掘権などの利権という形態で中国の国土を分割支配していった。外国支配に対する民衆の怒りは1900年の義和団の反乱となって現れ、分割支配の利害の対立は満州をめぐって日露戦争となった。列強に対して妥協的な清朝政府が1911年の辛亥革命で倒れたが、北京の軍閥政府はその後も従属的な対応を続け、第一次世界大戦後は日本の進出が顕著となり、1915年二十一カ条要求以来、山東問題が国際問題化した。

建艦競争
中国分割を諷刺した絵
 動揺の続く清は、日清戦争の敗北によって日本と締結した下関条約によって生じた多額の賠償金支払いのため、イギリスなど列強に対して外債を発行し、借款(外国政府から資金を借りること)でしのいでいた。列強は、借款を通じて鉄道敷設権や鉱山採掘権を獲得していった。また、列強は中国の国土を清朝政府から租借という形で奪っていった。一定地域を他国に租借しないことを約束させ、自国の勢力範囲とするやり方もあった。これらの方法によって列強は、19世紀末に中国国土を分割し、中国は事実上の半植民地状態に陥った。

「瓜分の危機」

 1898年にはドイツは膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾というように、列強4国がそれぞれ租借地を獲得した。日本は、清朝政府に対し、台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させ、その勢力圏とした(福建省不割譲条約)。このような列強による中国分割は「瓜分の危機」、つまり瓜(ウリ)を割るように中国が分割される、と捉えられ、民衆の反発が強まっていく。
 中国進出が遅れることとなったアメリカ合衆国は、1899年、国務長官ジョン=ヘイの名で、門戸開放宣言を発表し、中国での門戸開放・機会均等を要求し、さらに1900年には中国の領土保全を原則とすることを主張した。
 この1898年には、アメリカ合衆国は米西戦争でフィリピンその他を植民地化し、アフリカではイギリスとフランスがファショダ事件でにらみ合い、南アフリカではセシル=ローズによるブール人に対する侵略が進行するという、帝国主義による世界分割が進行していた。

列強の分割地と利権

ドイツの分割地:宣教師の殺害を口実に1897年に山東省の膠州湾を占領、1898年に99年間の期限で租借した。そこに青島港を建設し、東洋艦隊を駐留させた。また山東半島を貫く山東鉄道の敷設権を認められ、山東省一帯はドイツの勢力圏となった。 → 山東問題
ロシアの分割地:三国干渉により遼東半島を日本から清朝に返還させることに成功し、さらに1896年、東清鉄道の敷設権を得て、遼東半島に進出。1898年、25年間を期限として、遼東半島南部の旅順・大連を租借した。旅順(軍港)には極東艦隊を配置し、それに隣接する大連(商業港)とともにアジア進出の拠点とした。後に日露戦争に敗れた結果、ポーツマス条約によってその租借権を日本に譲渡した。
イギリスの分割地:ドイツの山東省、ロシアの遼東半島への進出に対抗して、1898年、山東半島の威海衛を期限25年で租借し、海軍基地を建設した。さらに、香港と広州を結ぶ広九線、上海と南京を結ぶ滬寧線(こねいせん)の敷設権を獲得し揚子江流域を勢力圏とした。さらに九竜半島北部地域(新界)も99年間の期間で租借した。(1997年の香港返還はこの期限が終了したことによって実現した。)
フランスの分割地:1895年、他の列強に先だち安南鉄道の雲南延長権、雲南・広東・広西の鉱山採掘権を獲得。1898年には広州湾を占領、1899年に、期限99年で租借した。また、雲南とベトナムを結ぶ滇越線(てんえつせん)を得た。

清朝の動き

 日清戦争に敗北したことに危機感を持った若い皇帝光緒帝は、康有為梁啓超などの若手官僚を登用し戊戌の変法と言われる近代化を目指す改革を開始した。この改革と平行して列強の中国分割が進み、さらに改革派の危機感は強まったが、この動きは西太后を中心とする保守派によって排除され、失敗に終わる。次いで、民衆から列強の侵略に抵抗する動きが起こった。それが義和団事件(北清事変)である。
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ノートの参照
第14章3節 ア.中国分割の危機