租借
ある国が外国との取り決めにより、国土の一部をその国に貸し与えること。その土地を租借地、あるいは租界という。1898年の帝国主義列強による中国分割に始まり、その世界分割支配の手段として多発したが、第2次世界大戦後の植民地独立で租借地も開放され、1997年の香港返還で租借地は事実上消滅した。
租借(そしゃく)は近代国家間の関係で用いられる、国家間の土地の貸し借りのことであるが、一般的に欧米列強がアジア、特に中国に対して武力的な威圧を背景に強制した場合をさすことが多い。また租借にはその土地の使用権、利用権だけに限定される場合もあるが、問題となるのは租借した国がその地の行政や警察、裁判などの統治権を認められ中国の法律の及ばない治外法権の地となった場合である。そのような租借地を特に租界ということが多い。
租借は二国間の取り決めによって成立するので、通常はその期間を定めている。期限には25年などの短い場合から、99年という長期にわたる場合もあった。上海の租界のように、太平天国の混乱期にイギリスが居留民を守ることを口実に軍隊を駐屯させ、事実上の租借地にしてしまったケースもある。
続いてその直後の同1898年3月、ロシアは旅順・大連をそれぞれ租借地として獲得した。
イギリスは、ドイツ・ロシアの積極姿勢に対抗する意図を持って同1898年6月に香港島の北の九竜半島を、同年7月には山東半島先端の威海衛を租借した。
フランスはこのころアフリカのファショダ事件でイギリスと対立していたが、その衝突を回避した後の同年11月、すでに獲得していたベトナムに近い中国南部の広州湾を租借した。
この1898~99年におけるイギリス、フランス、ドイツ、ロシアによる中国分割は、帝国主義国間の世界分割に拍車をかけた。
日本は日清戦争によって獲得した台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させる福建省不割譲条約を締結してその勢力圏を確保した。
アメリカはこの年4月に米西戦争でフィリピンに出兵、グァム島を占領し、さらに同年8月、ハワイ併合した。その先には中国進出をめざしたが、列強の中国分割に後れを取る形となったため、国務長官ジョン=ヘイの名で翌1899年9月、門戸開放・機会均等宣言を発表し、中国の領土保全を掲げると共にアメリカの中国大陸侵出の意図を明らかにした。
租借は二国間の取り決めによって成立するので、通常はその期間を定めている。期限には25年などの短い場合から、99年という長期にわたる場合もあった。上海の租界のように、太平天国の混乱期にイギリスが居留民を守ることを口実に軍隊を駐屯させ、事実上の租借地にしてしまったケースもある。
中国分割
特に中国に対して列強が租借地を獲得したのが、日清戦争で清の弱体化が公然となった時期からであり、まず三国干渉に成功したドイツ、ロシア、フランスが動いた。まずヴィルヘルム2世が世界政策を展開するドイツは1898年3月6日に前年のドイツ人宣教師殺害事件を口実に山東半島の膠州湾を99年間租借することに成功した。続いてその直後の同1898年3月、ロシアは旅順・大連をそれぞれ租借地として獲得した。
イギリスは、ドイツ・ロシアの積極姿勢に対抗する意図を持って同1898年6月に香港島の北の九竜半島を、同年7月には山東半島先端の威海衛を租借した。
フランスはこのころアフリカのファショダ事件でイギリスと対立していたが、その衝突を回避した後の同年11月、すでに獲得していたベトナムに近い中国南部の広州湾を租借した。
この1898~99年におけるイギリス、フランス、ドイツ、ロシアによる中国分割は、帝国主義国間の世界分割に拍車をかけた。
日本は日清戦争によって獲得した台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させる福建省不割譲条約を締結してその勢力圏を確保した。
アメリカはこの年4月に米西戦争でフィリピンに出兵、グァム島を占領し、さらに同年8月、ハワイ併合した。その先には中国進出をめざしたが、列強の中国分割に後れを取る形となったため、国務長官ジョン=ヘイの名で翌1899年9月、門戸開放・機会均等宣言を発表し、中国の領土保全を掲げると共にアメリカの中国大陸侵出の意図を明らかにした。
租借地の消滅
これらの租借地は第一次世界大戦後の中国のナショナリズムの高揚によって、期限を待たずに返還されたり、租借国が変化したりし、第二次世界大戦でほぼ消滅した。その中でなおも租借として残っていたのが、イギリス領香港に隣接した九竜半島地区と、ポルトガルのマカオであったが、九竜半島の租借期限が切れた1997年に香港返還、1999年にはマカオ返還が相次いで実現し、帝国主義時代の遺物である租借地は消滅した。