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旅順/大連

1898年、ロシアが清から租借した遼東半島南端の軍港と商業港。日露戦争で日本が租借権を継承した。

 遼東半島南部の最先端に位置する港が旅順。その東に位置するのが大連。いずれも渤海湾の入口を制する重要な位置にあり、1878年に清は旅順に北洋艦隊の要塞を設けた。日清戦争の際、日本軍が占領し、このとき日本軍は旅順の市民を多数殺害し、外国の新聞がそれを報じて、世界的な非難を浴びる事件が起こっている。
 下関条約で旅順・大連を含む遼東半島は日本に割譲されることとなったが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、清に還付された。その後、満州方面に進出してきたロシアが、1898年の列強の中国分割の中で、旅順と大連を併せて租借した。ロシアは旅順に要塞を築き、日本との戦いに備え極東艦隊の基地とした。

日露戦争

 日露戦争では日本軍が旅順を155日間にわたる激戦の末に占領した。その結果、ポーツマス条約によって日本は遼東半島南部(旅順・大連)の租借権をロシアから継承することとなった。日本はこの地を関東州と称し、海軍の基地及び関東軍司令部を置き、南満州鉄道とともに日本の大陸侵出の足場とし、1915年には二十一カ条の要求で租借期限を99ヵ年に延長をみとめさせた。 → 満州 東三省

第二次世界大戦後の旅順・大連

:第二次大戦中1945年2月のヤルタ会談で成立したヤルタ協定の秘密条項合意にもとづいて、スターリンはソ連軍を駐留させ、45年8月の中ソ友好同盟(ソ連と中華民国政府の条約)で30年間の自由港となり、ソ連軍が利用を続けていた。1949年に中華人民共和国が成立し、返還は中ソ間の課題となったが、スターリンの死去後、フルシチョフ政権下の55年にソ連は撤兵し、中国に返還された。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.98>

Episode 大連の街

 大連の地は19世紀末までは青泥窪という小さな漁村に過ぎなかった。1898年、旅順とともにこの地を租借したロシアはダルニーと名付けて軍港を築き、極東進出の足場にしようとした。1905年に日本が租借権を引き継いだとき、大連と変えられた。第二次世界大戦後にはソ連軍が駐留し、55年にようやく(というか初めて)中国のものとなった。現在は旅順と合併して、旅大市となっている。このように大連はロシアが建設し、長くロシア人が住んでいたので独特の街作りをしている。戦前の大連で女学校時代をすごしたジャズピアニストの穐吉敏子さんは大連をこんな風に回想している。
(引用)……大連は確かに大都会、それもロシア人が都市設計をしたことが大きな理由だと思うが、ヨーロッパのにおいがプンプンしていた。車輪状というのだそうだが、広場があって、そこから放射状にいくつかの通りが出ており、その通りがまた別の広場にうながっている、という形だった。一番大きいのが大広場で、満鉄ビル、優雅な大和ホテル、銀行などがこの広場を囲んでいた。……<穐吉敏子『ジャズと生きる』1996 岩波新書 p.14>
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ノートの参照
第14章3節 ア.中国分割の危機
書籍案内

穐吉敏子
『ジャズと生きる』
1996 岩波新書