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ナオロジー

19世紀後半、インドの民族運動の指導者。初期のインド国民会議派を指導した。

ダーダーバーイー=ナオロジー(1825~1917)はボンベイ(現在のムンバイ)のゾロアスター教徒(インドではペルシア系の意味でパルシーといわれた)出身で、英語の高等教育を受けインド人として初めて物理と数学の教師になった。後にイギリスに渡り、イギリス人のインド理解者と共に「東インド協会」をつくり、インドの近代化に関する議論に関わる。帰国後、インド国民会議の開催に当たり、そのメンバーとなって1886年には議長を務め、インドの民族運動の指導者の一人となった。
 その後再びイギリスに向かい、下院議員選挙に立候補して当選、インド人として初めてイギリス下院議員(1892~95)となった。その後もインドで国民会議派の指導者として活動し、その「富の流出」論はインドの自治要求の根拠とされた。しかし彼はあくまでイギリス支配のもとでのインド人官僚枠の拡大や選挙権の拡大などの自治拡大の要求に留まる穏健派であったので、ティラクら急進派と次第に対立するようになり、国民会議派分裂後は影響力が弱まった。

「富の流出」論

 初期のインド国民会議で議論された問題に「富の流出」問題がある。それを最初に提起したのが、ナオロジーであった。彼は、1867年ロンドンの東インド協会の会合で「インドに対するイギリスの負債」と称する論文を読み上げ、初めて「富の流出」論を発表した。「インドの歳入の内、ほとんど4分の1は、インドの国外でイギリスの資産に加えられ、その結果インドは常に出血させられる」というものであった。すでに1830年代にラーム=モーハン=ローイやロメーシュ=ダットらもインドで地租として治められた富がイギリスに流出していると批判していた。これらの「富の流出」論は、インドの貧困と頻発する飢饉の最大の原因であると認識され、1896年のインド国民会議派のカルカッタ大会では「インドの貧困と飢饉は富の流出による」と正式に表明がなされた。これらの議論を経て、インド国民会議派の運動は急進化していった。<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.87>
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第14章3節 オ.インドでの民族運動の形成