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ヒンドゥー教徒

インドで多数を占めるヒンドゥー教の信者。長くイスラーム教徒と共存したが、イギリス植民地支配の中で分離させられ、独立の過程で別個の国家を形成する。

 ヒンドゥー教はインド古来の民族宗教であるので、インド人の多数がヒンドゥー教徒であった。つまり、自覚的、意図的に教徒になるのではなく、「生まれによってヒンドゥー教徒となる」のであった。4世紀のグプタ朝時代に、祭式中心のバラモン教が、内面的でありしかも大衆的であるヒンドゥー教に変化してから、インドの民衆にとって日々の生活と切り離せない信仰として定着した。そのような日常生活のあり方をまとめたものが『マヌ法典』であり、さまざまな通過儀礼や四住期に代表される人生の指針が示されている。

イスラーム教徒との共存

 7世紀にイスラーム教が西北から入ってきて、13世紀からは北インドは恒常的にその征服者に支配されるようになり、ムガル帝国でも被支配者の立場であった。しかし、もともとヒンドゥー教は他の宗教に対して寛容であり、アクバル帝の宥和政策もあって、日常的には二つの宗教は共存出来ていた。

イギリス支配のもとでの宗教対立

 しかしイギリスの植民地支配が進む中で、多数派のヒンドゥー教徒は植民地政庁の下僚になったり、比較的社会的な上層を形成し、少数派で貧困状態の続くイスラーム教徒(ムスリム)の対立が生じた。イギリス当局も分割統治策をとり、ヒンドゥーを優遇した。ヒンドゥー教徒の中にも、ヒンドゥー教の浄化を図るヒンドゥーイズムが生まれ、イスラームとの対立が深刻となっていった。独立運動の過程でインド国民会議はヒンドゥー教徒が主体となった。熱心なヒンドゥー教徒であったガンディーは、イスラーム教徒との協力を説き、またヒンドゥー教の中にあるカーストの対立、不可触賎民への差別と戦った。しかし、1947年の独立にあたっては、ヒンドゥー教徒はインドとして独立し、イスラーム教徒はパキスタンとして分離独立した。 → ヒンドゥー・イスラームの対立(コミュナリズム)

Episode 菜食主義と不殺生(アヒンサー)

 ヒンドゥー教徒は菜食主義(ベジタリアン)であることがよく知られている。もっともそれには程度の差があって、肉や魚などを一切口にしない人から、牛肉以外の鶏肉や魚などは食べるという人、肉類は食べないが卵は良いという人などさまざまである。また菜食主義も徹底した人は、葉菜類しか食べず、芋などの根菜類を食べないという人も多い。なぜ芋類がダメかというと、芋を畑からひく抜くときに土中の虫を殺してしまうからであるという。つまり不殺生の教えを徹底して守ると、葉野菜類だけになるというわけである。もっとも普段は不殺生を厳しく守るヒンドゥー教徒であるが、祭りの時に犠牲の動物を殺すことには抵抗が無い。神への犠牲として動物を殺すことは、神が悦ぶこととされるからだ。<森本達雄『ヒンドゥー教』2003 中公新書 p.103>

Episode ガンディーの肉食否定

 ガンディーの自伝には、ヒンドゥー教の教えを忠実に守っていた若い頃のガンディーが、友人から「イギリス人がインドを支配できるのは彼らが肉食をするからだ。彼らのように肉食によって強健な身体をつくるのもインドの改革の一つだ」と誘われて、肉(山羊肉)を口にしてしまった。しかし、熱心な信者である両親を裏切ったことを強く後悔する。そしてこう決心した。「肉を食べることは大切だし、また、国で食物の『改革』を取り上げることも大切だけれども、だからといって、父や母をだましたり、嘘をついたりすることは、肉食をしないことより、いっそう悪いことではないか。だから、彼らの存命中は、肉食をやめにしなければならない。彼らがもうこの世にいなくなり、私が自由の身になったとき、公然と肉を食べよう。そのときが来るまで、わたしはつつしもう」と決意した。結局、ガンディーはその後も肉食に戻ることはなかった。<ガンジー/蝋山芳郎訳『ガンジー自伝』1983 中公文庫 p.40-45>
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ノートの参照
第14章3節 オ.インドでの民族運動の形成
書籍案内

森本達雄
『ヒンドゥー教
-インドの聖と俗』
2003 中公新書

ガンジー/蝋山芳郎訳
『ガンジー自伝』
1983 中公文庫