印刷 | 通常画面に戻る |

ゾロアスター教

イラン(ペルシア人)の宗教であり、宗祖はゾロアスター。その成立年代は前1200年代から前7世紀頃までの幅があり、確定していない。3世紀のササン朝の国教とされ、聖典『アヴェスター』が編纂された。光明神(善神)であるアフラ=マズダを最高神とし、その象徴として火を崇拝するので拝火教とも言われる。世界を光明神と暗黒神(悪神)であるアーリマンの対立とという二元論として捉え、終末に救世主による最後の審判が下されると説くその世界観は、その後のユダヤ教やキリスト教などの一神教に影響を与えた。7世紀にイスラーム教がイランに進出したことによって衰え、ほぼ消滅したが、一部の信徒はインドに逃れ、現在もパールスィーといわれている。また、ソグド人らによって東方に伝えられ、唐では異教の一つ、祅教として流行した。

ゾロアスター教の概観

 古代イラン(ペルシア人)のゾロアスターが創始した宗教で、アフラ=マズダ(アフラは神、マズダは知恵の意味もある)であり、信者はその象徴の火を崇拝する。また破壊と暗黒の神である悪神アーリマンとの抗争とみる二元論的世界観が特徴となっている。現在はほぼ影響力を失っているが、かつては広く西アジアに広がり、イラン文明にとどまらず、世界史的に重要な諸影響を周辺文明に与えた宗教であった。特に唐の都長安では祅教(拝火教とも)と言われたことはよく知られている。また、宗祖ゾロアスターは特にニーチェがその名をして自己の理念を吐露したことなどから関心が高い。しかし、何か特異な呪術的で魔術的な宗教というイメージも強く、一部で強調される日本の飛鳥文化との類似性などから、興味本位でとらえられることもある。高校生の学ぶ世界史でよくとりあげられるにもかかわらず、その実態、実像が知られていない、そしで誤解の多い事項なのではないだろうか。そこで管見の及ぶ限り学ぶことのできた要点を示しておく。
成立時期と背景 その成立年代と時期については幅広い見解があり、ゾロアスター(ザラスシュトラ=スピターマ)は実在の人物とされているものの紀元前1200年頃から前1000年頃に遡らせる説から、前7世紀頃と限定する説があり、その活躍場所もイラン高原西部(メディア)説から、バクトリア(ほぼ現在のアフガニスタン)説などがあって幅広い。いずれにせよ、ゾロアスターの活動時期、場所についてはいまだに決着はついていない事項である(ということは受験で問われることはないはずなので、ご安心を)。
創始者 ゾロアスター ゾロアスター(ツァラトゥストラ)は正しくはザラスシュトラ=スピターマという実在の人。日本における古代イラン学の権威で『アヴェスター』の翻訳などで知られる伊藤義教氏は、その活躍時期を、ゾロアスターの教えに帰依し、彼を保護し、教団発展の契機となったウィシュタースパ王をアケメネス朝ペルシアのダレイオス大王の父ヒュスタスペスと考え、ゾロアスターを前630年に生まれた、と絞り込んでいる。とするとその活動時期は前7世紀末から前6世紀ごろ、となる。<伊藤義教訳『アヴェスター』1967 ちくま学芸文庫版 2012 p.231/前田耕作『宗祖ゾロアスター』1997 ちくま学芸文庫版>
 一方で、ゾロアスター研究の世界的権威とされるメアリー=ボイスは次のように述べている。
(引用)ゾロアスター教は、啓示によって開かれた世界宗教の最古のものであって、直接的にも間接的にも他のどの宗教よりも人類に大きな影響を与えてきた。ゾロアスター教という宗教は、紀元前6世紀から紀元後7世紀までほぼ継続的に中近東の大半の地域を支配して栄えたイランの三つの帝国の国教であった。その帝国の権力と富のおかげで、この宗教は大きな権威をもったので、その主要な教義のなかには、一群のグノーシス派信仰ばかりでなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にもとり入れられたものがあったし、東方においては北伝仏教の発展にも影響を与えた。今日では外部的な要因から、ゾロアスター教徒は、各地に分散した少数民となり、主としてイランとインドに住んでいる。しかし、最初に預言者ゾロアスターが説いた教えは、いまも全世界の他の宗教徒に守り継がれているのである。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.27>
 とした上で、ゾロアスターの生涯について確実な年代を決定することは不可能としながら、言語学と考古学の知見から、次のように年代と場所を推定している。彼が使った「古アヴェスタ語」にきわめて近いヴェーダ語の最も古い『リグ=ヴェーダ』の正確な年代が前1500年頃であり、アヴェスタ語の発展はもっとゆっくりとしていて、「古アヴェスタ語」は前1200年、「後期アヴェスタ語」は前800年頃とされる。考古学の発見物からイラン人が現在のイランに移動したのは前1000年頃だとすれば、ゾロアスターの生存年は前1200年頃とすることで、彼はイラン人のイランへの移動の前に、内陸アジアの草原地帯のどこかに生きた人であるといえるだろう。<M=ボイス『同上』 p.12>
 なお、ゾロアスター教成立の契機となったウィシュタースパ王については、この王と同名の名の王が、前1200年代に存在したとして、ゾロアスターの活躍時期をそこまで遡らせる説が補強されている。それによれば、ウィシュタースパ王はイラン高原東北のバルフ近郊の地方君主のひとりであった。現在はこちらの方がどうやら有力になっているようだが、いずれにせよ、ゾロアスターの生存年代と活動場所の正確なところは不明というしかなさそうだ。<青木健『ゾロアスター教』2008 講談社選書メチエ/山本由美子『マニ教とゾロアスター教』1998 世界史リブレット p.13>
 また、ゾロアスター教をインドに入ったインド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人の諸宗教(ミトラ教など)の一つとして捉え、ヴェーダバラモン教との近親性を重視する考えがある。それによれば、他のアーリヤ人と同じく自然崇拝の多神教で、部族ごとのさまざまな神々を崇拝する密議や呪術が行われていたイラン人が、前2000年から1500年ごろにかけて鉄器と騎馬術を身につけて急速に旧来の部族的な秩序が崩れて混迷するなか、前1200年ごろに現れたゾロアスターが宗教改革に立ち上がったということになる。
ゾロアスターの宗教改革  ゾロアスターは人間の正しい生き方をもとめ、従来の宗教を堕落した形だけの祭祀に過ぎないとして批判する宗教改革を開始し、唯一の真理であり光明である創造神アフラ=マズダに従って正義と秩序を実現し、それに敵対する闇と悪の霊力を持つアーリマンと戦うことを説き、ゾロアスター教を創始した。一人の教祖が、神の啓示を受けて創始し、啓典(神が示した聖典)を持つ宗教を啓示宗教というとすれば、ゾロアスター教は世界で最初の啓示宗教であった、と言うことができる。(イスラーム教徒は、ユダヤ教徒とキリスト教徒は「啓典の民」と認め、ゾロアスター教徒もそれに準じた。)
 神の啓示を受けたゾロアスターの言葉を直接知ることができるのが、現在伝えられているアヴェスターの中で、古アヴェスター語で書かれた詩編であるガーサーである。ガーサーで伝えられているゾロアスターの教えは、古いイラン人の信仰を否定して、新たな宗教を創始する、一種の宗教改革であった。ガーサーに見るその輪郭は次のようなものである。<前田耕作『宗祖ゾロアスター』1997 ちくま学芸文庫版 p.163-165>
  • 第一は、邪悪な偽りの神々(デーウ)への祭祀である、牛を屠り飲酒をする(ハオマ)ことを禁止した。
  • 第二は、アフラ=マズダを唯一の最高神としてその分神(大天使)とともに敬うこと。
  • 第三は、アフラ=マズダを双生の対立する二神、スプンタ=マンユ(聖霊)とアンラ=マンユ(破壊霊)のうち、前者の父としたこと。人間はそのいずれかを二霊にならって選び取る。二元論を一神論に切り替えるのは選取するものの意思なのである。
  • 第四は、人間は死ぬと、その魂は正義と不義のどちらを選び取って生きたかを調べられる「検別者の橋」へと送られる。
  • 第五は、やがてダエーワ(偽りの神々)は打ち負かされ、救世主サオシュヤントが現れ、最後の審判の後許されたもののみが生まれ変わった新しい世界で、勝利したアフラ=マズダが輝く。
 この一種の宗教改革により、イラン社会に高度な倫理性がもたらされ、その象徴として火を崇拝する儀式を守る祭司団が成立し、前1200年代から前7世紀頃までの長い経緯のなかで原始ゾロアスター教団が形成されていった、と考えられている。ただ、ゾロアスター自身がアケメネス朝時代を通じてギリシアにも知られる過程で魔術的な司祭として伝えられ、それがその後もルネサンス時代や近代にいたるまでの誤ったゾロアスター像となってしまい、さらにゾロアスター教団そのものがササン朝ペルシアの滅亡に伴ってイランでは消滅したため、その実態が茫漠とした過去に取り残されてしまった、といえる。
ゾロアスター教の教義 ゾロアスター教は、基本的には光明神(善神)であるアフラ=マズダを最高神とする一神教である。また、偶像ではなく、火を最高神の神聖な象徴として崇拝するので拝火教とも言われる。しかし、光明神アフラ=マズダににたいして常に敵対する暗黒神(悪神)であるアーリマン(アヴェスター語ではアンラ=マンユ)が存在するとし、この二神から派生するさまざまな霊が存在すると説くので、一見、多神教のようにも見える。またゾロアスター教では昼と夜の交替などもこの二神の抗争として捉え、やがて終末には救世主(サオシュヤントという)が現れて最後の審判が下され、アーリマンは打ち負かされるとする。そのような世界観はその後のユダヤ教やキリスト教などの一神教に影響を与えたと考えられている。
ゾロアスター教の儀礼 ゾロアスター教の祭司はアフラ=マズダに従う信仰告白、祈祷を行い、光明の象徴として火を絶やさずにさまざまな儀礼を守り、アーリマンによって穢されたものを浄めなければならなかった。その浄・浮上の観念はイラン人の長い遊牧生活の伝統からうまれたもので、不浄なものを浄めるのに牛の尿が用いられたり、さそり、蜂、蛙は不潔な存在なのでそれらを殺すことは悪を減少させることとして奨励されている。<M=ボイス『同上』 p.100>
アケメネス朝ペルシア帝国 ゾロアスター教はアッシリア帝国滅亡後にイラン高原を支配したメディア王国支配下でイラン人のなかで広がり、そのイラン人の建てた国家であるアケメネス朝ペルシアで王たちの保護を受けて発展したが、この段階では国教となったわけではなかった(ただし、メアリー=ボイスはアケメネス朝でも国教であったとしている)。
アレクサンドロスの侵入  アレクサンドロス大王の東方遠征にってアケメネス朝ペルシア帝国が滅亡した際にゾロアスター教の祭司(マギ)が多数殺された。始祖ゾロアスターの言葉は文字ではなく、口承によって伝えられていたので、祭司が殺害されたことはその伝承が途絶えることであり、ゾロアスター教にとっては最大の試練であった。ササン朝に成立したゾロアスター教の文献ではアレクサンドロスは最大級の悪魔として罵られている。
セレウコス朝とパルティア  その後のヘレニズム時代のイランを支配したギリシア系国家セレウコス朝シリアの時代もゾロアスター教にとっては苦難の時期であったと思われるが、ギリシア文化の影響は都市部にとどまり、農村ではゾロアスター教の信仰とその伝統は根強く残った。前3世紀にイラン高原に出現したパルティア(アルサケス朝)はペルシア人の国家であったが、強くヘレニズムの影響を受けていた。また、継ぎに現れたササン朝が故意にパルティアをイランの正統的な王朝ではないと宣伝したため、パルティアではゾロアスター教が否定されたように説明されることがあったが、パルティア王は自らゾロアスター教徒となることはなかったものの、他の宗教と同じように寛容であり、弾圧するようなことはなかった。むしろ、ゾロアスター教がギリシア的な偶像崇拝などの影響が現れた。それでも次第にイラン文化復興の動きの中で次第に教団としての体制をつくりあげ、次のササン朝時代につながった。
ササン朝での国教化 紀元後3世紀のササン朝ペルシアの初代の王アルデシール1世は、ゾロアスター教を国教とし、自らの正当性の根拠とした。ゾロアスター教はササン朝の帝国支配と結びついて体系化され、イランに広がったが、同時にそのころはイラン高原にキリスト教や仏教の影響も及んできた。それらを採り入れてゾロアスター教との折衷したマニ教が成立すると、次のシャープール1世はその教祖マニ(マーニー)を一時保護した。しかし、ゾロアスター教祭司団の主張によりマニ教は異端として排除された。ゾロアスター教団も教義や教団の整備に迫られ、6世紀のホスロー1世の時に聖典『アヴェスター』が編纂されるなど、国教としての態勢を整えた。
マニ教の派生 ササン朝でゾロアスター教は国教とされたが、同じころ、宗教家マーニーがゾロアスター教とグノーシス的なキリスト教とを混淆させた折衷的なマニ教を興こすと、シャープール1世は一時マニ教を保護したため、ゾロアスター教との宗教対立が起こった。宗権をめぐる対立は、その子ホルミズド1世(在位272~273)がマニ教を宮廷から追放し、マ-ニ-も死に追いやられたためゾロアスター教の優位が復活した。
衰退とイランのイスラーム化 7世紀にイスラーム教がイランに進出し、ニハーヴァントの戦いの戦いに敗れたササン朝ペルシア帝国が滅亡したことによって、ゾロアスター教もイラン高原においてはほぼ消滅した。7世紀のイラン人のイスラーム化は、西アジアの歴史的転換を意味した。

参考 なぜゾロアスター教は衰退したか

 ゾロアスター教は、イスラーム教の浸透によってほぼ消滅してしまった。長いイラン民族の伝統宗教であり、世界最古の啓示宗教であるゾロアスター教がなぜそのようなことになったのか。同じような状況にあったキリスト教やヒンドゥー教との違いはなぜ生まれたのか。この問いは現代のイスラーム教世界を考える際にも意味があるのではないだろうか。単純な“文明の衝突”史観に陥ることを警戒しながら考えなければならないが、その答えの一つとしてメアリー=ボイスの言うところを聞いてみよう。
(引用)西欧の学者達はこの時期のゾロアスター教が無味乾燥なものであったと推定して、多くのことを書いてきた。ゾロアスター教は7世紀までに儀礼や形式的なことで窒息させられていたので、征服者の剣の一ふりで砕けさったのだという印象がしばしばあたえられる。しかしながらそのような解釈は、イスラム教が究極的には勝利したことから生まれた先入観によるところが多い。・・・現地および外国の資料が証明するのは、全体としてこの時期のゾロアスター教が、強大な国の強力な宗教であったこと、貧富を問わずに忠誠を求め、信者たちには生き生きした言葉で直接人生の目的とそれを達成するための明瞭な処方を与えたことである。この教えは希望と力を与えた。・・・それは生を評価する信仰であって、現世を否定するものではない。たしかにこの宗教は、その長井年月のもたらす重荷に苦しんでいた。つまり、その古びた教義と慣習の伝承が研究者や神学者たちに知的な課題を与えたことを意味する。しかしこれらは、信者である大衆に影響を及ぼすものではなかった。それらの人々は、もしあったとすれば、祭司たちによる取り立ての方に苦しめられていたとみられる。
 サーサーン朝の終わりには、イランは、疑いもなく、宗教改革前のヨーロッパのように祭司に牛耳られていた。すべての人は、貧富にかかわらず、魂を救うための宗教祭儀や浄めの儀式や、罪を償う勤めに対してお金を出すよう圧力をかけられていた。続く信仰の歴史は、多くの平信徒がそのような義務や義理を、正義の戦いをするうえでの自分の役割の一部として受けいれたことを示している。しかし貪欲だったり非良心的だったりする祭司に出会った者のなかには、中世のキリスト教徒がそうであったように、自らの背中に乗っかった聖職者を追い払いたいと望んだものもあったに違いない。この時期には、教会や儀礼上、多くの発展がみられ、ゾロアスター教にとっては、改革とか救済の希望がある程度まで各人の手の届くところにあった初期のより単純な慣習に復帰するための機が熟していた。しかし実際には、信仰に、新しい生命と力を与える改革という再生の嵐が吹くことはなく、軍事的なイスラム教という脅威の嵐が吹いてきたのであった。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.271-273>

イスラーム教国家下のゾロアスター教

 イスラーム教では、ユダヤ教徒キリスト教を啓典の民(ズィンミー)として認め、人頭税(ジズヤ)の納付を条件にその信仰を認めていた。ゾロアスター教徒は啓典の民とはされなかったが、ムスリムは征服活動(聖戦)が終わったウマイヤ朝のもとでは、ゾロアスター教徒に一定の敬意を払い、啓典の民と同じように扱った。つまり、一般には「改宗か死か」といった強制的な改宗は多くはなかった。民衆はゾロアスター教を掲げたササン朝が敗れたことは、はイスラームの教えが正しいからだと信じ、改宗したものも多かった。また奴隷は改宗すれば解放された。
 ウマイヤ朝で改宗しても人頭税(ジズヤ)を払わなければならなかったが、750年に成立したアッバース朝のもとで、イスラーム教に改宗すれば人頭税が免除されるようになったので、更に多くのイラン人が改宗したと思われる。イラン人はその高い文化的素養から官僚として用いられることが多く、いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。 → イスラーム化後のイラン

火の祭儀

 インド=イラン共通の時代(前1500年以前)より、火の祭儀はかれらの宗教生活においてきわめて重要な役割を果たしていた。火は日常生活にとって欠かすことのできないものであっただけでなく、供物を焼き、悪霊を祓い、不幸をもたらす魔を断ち、浄め、復活させる源であった。ゾロアスター教も中国で「拝火教」と言われたように、火を崇拝する宗教であった。
(引用)ゾロアスター教徒にとって、火はアフラ・マズダーの臨在の可視の印、神力のエピファニー(Epiphany 引用者注:東方の三博士のベツレヘム来訪が象徴する救世主の出現のこと)であり、光をもたらす天使であり、アシャ(正義)の象徴でもあった。彼らにとって最高の火はワーフラムの火で、あらゆる神を引きつける力を持っていた。この火は天と地をつなぐ門のようにみえた。天上の神々はまずこの火に近づき、それからそれぞれの場所へと行かれたという。この火への供儀は、神々とアフラ・マズダーへと差し向けられた。主たる神殿の中に安置されたワーフラムの火は王とみなされ、王冠が火の上にかかげられた。それゆえこの火は「火の王」ともよばれた。ササン朝の銀貨に、獅子座につくられた祭壇上に燃える聖火が描かれているが、それは火を王とみなしているからであろう。<前田耕作『宗祖ゾロアスター』1997 ちくま学芸文庫版 p.079-180>
 ゾロアスター教を国教としたササン朝(224~651年)では多くの拝火神殿が築かれ、「火居」、「火屋」、「火殿」などといわれていた。ゾロアスター教の祭儀上の火はアートゥル、その他の非祭儀的な火はアータッシュと呼び分けられていた。
 ゾロアスター教の国教として広まりと威勢は、ササン朝社会を形成する三つの階級を象徴する三つ組の聖火によって表されている。国の中心には王家の火が据えられ、王の即位のとき灯され、王が死を迎えたとき消される。第一の火は祭司階級の火、第二の火は戦士たちの火、第三の火は牧農者たちの火であり、それぞれの階級を象徴していた。現在もイラン各地に、拝火神殿の塔や崖につくられた祭壇が遺されている。

Episode マジックの語源

 ペルシア帝国・ササン朝といったイラン人の巨大な政治勢力は、常に周辺民族に大きな圧力となっていたので、イラン人の宗教であるゾロアスター教も、実像を上回る荘厳な後光を帯びて伝えられていた。ヨーロッパ人の目から見て、ゾロアスター教は絶えず東方の神秘的な教えとして捉えられた。ギリシアのある人は、ゾロアスター教神官とバビロニアの占星術師を勘違いしたし、ある人は、マギといわれたゾロアスター教神官が善神に祈って加護を求めるのをみて、彼らは幻術・奇術を使うイメージで捉えられ、怪しい魔界の妖力を自在に操る魔術師と語り伝え、「マギ」を語源として「マジック」という言葉が生まれた。しかし、ゾロアスター教神官は呪文を唱えて悪魔を追い払う「防御的な白魔術」を実践していたに過ぎない。<青木健『ゾロアスター教』2008 講談社選書メチエ p.23>

パールスィー インドのゾロアスター教徒

 ササン朝の滅亡によってイランにおいてはゾロアスター教祭司団はほぼその力を失ったが、その一部がインドに逃れ、インダス川下流域のヒンドウー社会でパールスィー(パールシー、ペルシー)といわれている独自のカーストを形成し、大きく変質しながら現在にいたっている。パールスィーとわれるのは現在、約25万人おり、彼らは経済活動に優れており、インドの有名なタタ財閥を創出したタタもゾロアスター教徒である。
パールスィーの先祖 伝承によればパールスィー共同体の先祖は、西暦936年にインド西部のグジャラート海岸に上陸したという。彼らはまず約20年、ディウ島で暮らし、その地のシルハーラ朝の王が寛容であったので、交易をしながらグジャラート海岸に移住し、定住した。故郷のホラサーンの町の名をとって自分たちをサンジャーンと呼んだが、インドの人々からは「ペルシアから来た人々」という意味でパールスィーと言われるようになった。彼らは祭司を中心に拝火儀礼などのゾロアスター教の教義と儀礼を守り続け、平信徒は商業を営みながらヒンドゥー教徒と共存してた。
 1206年、イスラーム政権であるデリー=スルタン朝が樹立されるとムスリムの圧力が強くなり、1297年デリー政権はグジャラート遠征軍を派遣し、総督を任命して改宗か人頭税の納付かを迫った。その後もムスリムはたびたびグジャラートに遠征し、略奪が行われたが、パールスィーはそのつど信仰を守り続けた。
 しかし、16世紀になるとポルトガル人が姿を現し、交易の利益の独占とキリスト教への改宗を迫るという苦難がパールスィーを襲った。1572年にはムガル帝国のアクバル帝がグジャラートに侵入し、パールスィーはその保護下に入ることとなった。
現在のパールスィー 乾燥気候のイランから高温湿潤のインドへと移住したため、パールスィー風俗は気候風土に適応して変化し、現在は一見しては他のインド人と見分けがつかない。しかし、その社会はヒンドゥー教徒との通婚のないカーストとして族内婚が続いており、他の宗教からの改宗者も受けいれないため、宗教儀礼は色濃く独自性を遺している。例えば葬儀では、本来のササン朝時代には死体は不浄なものなので路傍に放置し禿鷹に食われるかカラカラに乾燥させるかして骨だけにしてから摩崖横穴に放り込むの曝葬が行われていたが、現在ではさすがに路傍に放っておけないので、死体を高い塔の上部において禿鷹が出入りできるような「ダフマ」(英語では沈黙の塔といわれる)を考案した。
<パールスィーについては、メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.309-328/青木健『ゾロアスター教』2008 講談社選書メチエ p.180-186 に詳しい。>

ゾロアスター教の中国への伝播

中国のゾロアスター教   ゾロアスター教は中央アジアで活動したイラン民族であるソグド商人によって、3~4世紀の三国~南北朝時代に中国に伝えられた。その神は当初、天神とか胡(えびす)天神などと言われ、特に北朝の宮廷ではゾロアスター教を保護している。隋書には、胡天神を祀る「薩甫(サッポ)」の記事があらわれ、一説にはこれはゾロアスター教の祭司長とされているが布教のためササン朝から派遣された者と考えられている。
 またササン朝の滅亡によってゾロアスター教徒の一部は、中央アジアを経て東方に移住した。特に東西交易に従事していたイラン系のソグド人は遠く中国の唐の都長安に渡り、その地でゾロアスター教の拝火儀式を守った。それは唐では祅教または拝火教といわれ、仏教・マニ教・回教(イスラーム教)とともに異教の一つとされて、一時は長安で広く流行した。
唐のゾロアスター教 唐では祅教(けんきょう)といわれた。祅(けん)とは胡人の神のことで、信者が神を火祅とよんだことが由来である。また火を崇拝するので拝火教とも言われた。唐の人の中にはゾロアスター教を学ぶために当時の波斯(ペルシア)を訪れた者もあった。唐の時代にはネストリウス派キリスト教(景教)、マニ教(摩尼教)とともに三夷教として多くの信者がいた。7世紀の中ごろササン朝ペルシアがイスラーム帝国に滅ぼされたときに、多くのイラン人が中央アジアを経て唐に流れこんだことも一因であった。日本の空海が朝を訪れた804年にはゾロアスター教の祅祠(祅教の寺院)は多数あったと思われる。しかし、845年、道教を深く信仰した唐の武宗の「会昌の法難」によって仏教とともに三夷教も禁止されたため衰退した。

世界宗教から民族宗教への退行

 メアリー=ボイスはゾロアスターを、イラン人がイラン高原に移動する前の中央アジアで遊牧生活を送っていた時代にあらわれて、世界で最初の啓示宗教、つまり世界宗教を創始したととらえている。そのような観点から言えば、ゾロアスター教のイランでの定着は違った評価となる。
(引用)どのように、そして正確にはいつ、この宗教が西イランに達したか、どこで初めて歴史に記録されたかは、まだわからない。しかしながら、歴史に記録された時点ですでに、ゾロアスターがもっていた世界宗教としてのすぐれた識見はおおかた失われ、彼の宗教はイラン人に固有のものとみなされるようになっていた。・・・イラン人の多くが、次第にゾロアスターの教えを受けいれるようになった結果、それは、彼らの人種的遺産の一部とみなされるようになり、全人類の救済をめざす普遍的なメッセージではなくなってしまった。<M=ボイス『同上』 p.105>
 事実、ゾロアスター教は「歴史的にはだれにでも開かれていたとみらるものの、今日では改宗者を受けいれず、信者はかならず両親(まれに片親だけでもよいことがある)が信者である家族に生まれなければならないと限定されて、民族宗教的になっている」と言われている。<山本由美子『同上』 p.1>
 現在、統計上のゾロアスター教徒の数は正確にはわからないが、1976年の教徒集団の総数は12万9千人で、インドに8万2千、パキスタンに5千、スリランカに5百人、イランに2万5千人(その中の1万9千人がテヘランに住む)、イギリス・カナダ・アメリカにそれぞれ3千、オーストラリアに2百人という数字が示されている。<M=ボイス『同上』 p.413>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
1章1節 カ.古代オリエントの統一
6章1節 イ.トルキスタンの成立
書籍案内

伊藤義教訳
『アヴェスター』1967
ちくま学芸文庫版 2012

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫

青木健
『ゾロアスター教』2008
講談社選書メチエ

ゾロアスター教をアーリア人の宗教の一つとして相対化。原始ゾロアスター教からパールスィまでを概観。


前田耕作
『宗祖ゾロアスター』1997
ちくま学芸文庫版 2003

山本由美子
『マニ教とゾロアスター教』
1998 世界史リブレット 4