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ベンガル分割令

1905年、インドの反英闘争の分裂を狙って出した政策。インドの自治要求運動が激化する景気となった。

1905年、インド総督カーゾンが制定した、ベンガル地方をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の地域に分割統治し、民族運動の盛り上がりを抑えようとした法令。親英的だった国民会議派がインドの自治を求める民族主義運動の党派に転換する契機となった。

ベンガル地方とは

 ベンガル地方はインドの東部、ガンジス川とブラマプトラ川(の下流のジャムナ川)が合流し、ベンガル湾に第三角州をつくって流れ込む一帯を言う。その東半分は現在はバングラデシュとなっている。かつてムガル帝国時代にはベンガル太守がほぼ独立した地方支配権を持っていた。肥沃な地域で農業生産力が高かったので、イギリスの東インド会社はこの地域への進出を狙い、1757年のプラッシーの戦いでフランスと結んだベンガル太守の軍を破り、ベンガル知事(初代知事クライヴ)を置いて支配を強め、1765年にはディーワーニー(徴税権)を獲得した。イギリスはこの地方でザミンダーリー制(ザミンダールという地主を介して徴税する)を実施して支配した。1774年にはベンガル知事に代わってベンガル総督をカルカッタに置き、東インド会社を監督する体制とした。産業革命が進行し、イギリス資本主義にとってインド植民地の重要性が増すと、イギリス政府はインド直接支配への転換を強め、1833年にはベンガル総督に代わりインド総督を置いて全インド植民地を管轄させた。

イギリスの分割統治

 インド大反乱を鎮圧した後、イギリス政府は東インド会社を廃止してインドを直接統治とし、さらに1877年には「インド帝国」というイギリス連邦を構成する領土として帝国主義的な支配を開始した。1885年に親英的な国民会議派が結成され、統治の補完物とされたが、次第に民族的な自覚が高まる中で、イギリスはインド人の中のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して統治しようという、いわゆる「分割統治」をその手段とするようになった。その分割統治の典型的な例がこのベンガル分割令であった。

インド総督カーゾンの立法

 1905年、インド総督カーゾンはベンガル州を東西に分け、東=東ベンガルとアッサム地方、西=ベンガル本州とビハール・オリッサ地方とに分割する法令を施行した。表向きの理由は、人口8000万に及ぶベンガル地方を二分して、行政の実をあげると言うことがあげられていたが、実はこれによってイスラーム教徒の多数を占める東とヒンドゥー教徒が多い西とを分離させ、反英闘争を分裂させることを狙ったのである。これは時の総督の名をつけて、カーゾン法とも言われた。

ベンガル分割令に対する反対運動

 これに対し、インドではそれまで親英的であった国民会議派の中にティラクら急進派(過激派)が台頭し、がカルカッタで開催された大会で、四綱領英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育-を掲げて大々的な反対運動を起こした。イギリスは、穏健派(バネルジーら)と急進派の分断を図り、急進派に対してはティラクを逮捕するなど弾圧を加える一方、イスラーム教徒に対しては全インド=ムスリム連盟の結成を働きかけ懐柔を図った。運動は分裂と弾圧によって下火となったが、インド民族が初めて組織的な指導のもとで民族的な自覚を持ち、自治を求める運動に起ち上がった点が重要である。なお、ベンガル分割令そのものはバルカン情勢の悪化など、世界大戦の危機が迫ったのでインド側の要求を入れ、1911年12月に撤回した。
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ノートの参照
第14章3節 オ.インドでの民族運動の形成