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セルブ=クロアート=スロヴェーン王国

第1次大戦後の1918年、南スラヴ三民族によって作られた国家。1929年にユーゴスラヴィア王国となる。

 第一次世界大戦後、1918年12月に、「セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人の王国」として建国を宣言した。すでに独立国であったセルビア王国(マケドニアの一部を含む)、同じくすでに独立していたモンテネグロ王国)と、オーストリア=ハンガリー帝国領であったクロアティアスロヴェニアを加え、セルビア王国の摂政アレクサンダル公を新国王として発足した。この三民族はいずれも南スラヴ人に属している。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、アメリカ大統領ウィルソンの提唱する「民族自決」の原則を実現するものとして認められ、具体的には連合国とオーストリアの講和条約である1919年のサン=ジェルマン条約、さらに1920年の連合国とハンガリー王国の講和条約であるトリアノン条約で認められた。

地域対立のはじまり

 「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」は第一次世界大戦後の「民族自決」の大きな潮流から生まれた国家だったが、「南スラヴ人」を一個の「民族」ととらえるのには無理があった。特に北部のスロヴェニア、クロアティアと南部のセルビア、モンテネグロ、マケドニアは、前者が工業地域で比較的豊かであるのに対して後者は農村地域で貧しく、また前者は旧ハプスブルク帝国領で西欧に近く、宗教はカトリックで文字はラテン文字を使用するのに対し、後者は旧オスマン帝国領でギリシア正教が有力な中にイスラーム教が混在し、文字もキリル文字が一般的であるという違いがあった。

国王クーデターにより「ユーゴスラヴィア王国」へ

 こうして南スラヴ人の統合が実現したが、歴史的・文化的に性格の異なる民族が、擬制的な「国民国家」をつくろうとしたところにさまざまな困難が生じた。特に、中央集権化を進めようとするセルビアと、連邦国家として進もうとするクロアティアの国家間の対立は深刻な霧列を産んだ。そのような中で、国王アレクサンダルは、国家統合を維持するには国王の独裁体制が必要と考え、1929年に国号を「南スラヴ人の国」を意味する「ユーゴスラヴィア王国」に改称するとともに憲法を改正して国王権限の強化を図った。このように「第一のユーゴ」には発足時から困難があった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 などによる>
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ノートの参照
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞