印刷 | 通常画面に戻る |

モンテネグロ(1)

バルカン半島の南スラヴ系国家。セルビアとの関係が強い。16世紀からオスマン帝国の支配が及ぶが自治権を守った。露土戦争によって1878年、王国として独立した。

 バルカン半島の西側にある小さな独立国。モンテネグロとはイタリア語(ヴェネツィア方言)で「黒い山」を意味し、現地では同じ意味で「ツルナゴーラ」という。自国での正式な国号は「ツルナゴーラ共和国」である。黒い山と言っても実際には樹木は少なく、白っぽい山地が多い。住民はモンテネグロ人というが、南スラヴ系セルビア人とはほとんど違いが無く、言語もセルビア語の方言程度の差しかない。また南に隣接するアルバニア系の住民、a href="wh0501-015.html">ムスリム人なども多い。
 中世にはセルビア王国に属していたが次第に独自の道を歩むようになり、ヴラディカという正教会の主教が政治をとる一種の神政政治が行われた。16世紀にはオスマン帝国の圧迫を受けたが、完全に支配されることはなく、バルカン諸国の中で一定の税を納める貢納国として自治を守りモンテネグロ公国となった。この歴史的経緯がモンテネグロ人意識を強めている。

モンテネグロ王国

 19世紀には政治体制も近代化され、またロシアの主唱するパン=スラヴ主義に同調し、露土戦争(1877~78年)のロシアの勝利によってモンテネグロもオスマン帝国の影響力から脱して独立の契機をつかんだ。さらに1877年のベルリン条約によってセルビア、ルーマニアとともに国際的にも承認され、「モンテネグロ王国」となった。

Episode モンテネグロ、日本と交戦中?

 モンテネグロ王国は1904年当時、ロシアと軍事同盟を結んでいたので、日露戦争が勃発すると、条約に従って日本に宣戦を布告した。戦後、日本はロシアと講和条約を結んだが、モンテネグロとは結ばなかった(ポーツマス会談にはモンテネグロは参加しなかった)ので、「交戦中」の状態が続いている。モンテネグロ人は日本人を見ると冗談交じりに「敵国の日本人だ」などといったりするという。ただし日本は大戦後、モンテネグロの後継国家であるユーゴスラヴィアを承認した際に、国際法上は交戦状態は解消されたとしている。<千田善『ユーゴ紛争』1993 講談社現代新書 p.158>
 2006年6月にモンテネグロ共和国がセルビアと分離独立し、日本も承認した際に、交戦状態は正式に解消した。なお、国号は翌年、「モンテネグロ」に変更されている。
国号の変遷 意外なところで日本との関係のあるモンテネグロだが、国名変更は複雑な経緯があって判りずらいのでまとめておこう。
 セルビア王国 → セルブ=クロアート=スロヴェーン王国に併合(ユーゴスラヴィア王国に改称) → ユーゴスラヴィア連邦を構成する共和国 → 新ユーゴスラヴィア連邦を構成 → セルビア=モンテネグロ(国家連合) → モンテネグロ共和国 → モンテネグロ


モンテネグロ(2)

第一次世界大戦後、ユーゴスラヴィア王国を構成した。第2次大戦後はユーゴスラヴィア連邦の一員となったが、1990年代の内戦を経て分離独立した。

第一次世界大戦に参戦

 モンテネグロ王国は、バルカン問題が深刻化する中で、オーストリアの侵出に対抗してセルビアなどとともにロシアとの関係を強め、バルカン同盟に加盟し、第1次バルカン戦争ではオスマン帝国と戦い、第2次バルカン戦争ではブルガリアと戦った。第一次世界大戦が始まると、セルビアと共に連合国(協商国)で参戦し、ドイツ軍・ブルガリア軍と戦い、多くの犠牲を出した。

ユーゴスラヴィア王国を構成

 戦後は南スラヴ人の新国家セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年からはユーゴスラヴィア王国)に併合された。その際、モンテネグロは自国の王室を廃し、セルビア王国の王を戴くことに合意したが、次第にセルビア人主体の統合に反発し、自治を要求するようになる。

ユーゴスラヴィア連邦の成立

 第二次世界大戦でユーゴスラヴィア王国がナチスドイツに侵攻されて崩壊すると、クロアティア人のティトーがパルチザン闘争を指導し、ドイツ軍を撤退させ、戦後の主導権を握り、その指導の下で社会主義の連邦国家であるユーゴスラヴィア連邦が成立した。モンテネグロも自治権を持った共和国として連邦に加盟した。

モンテネグロ(3)

1991年にユーゴスラヴィア連邦の解体が始まったが、モンテネグロはセルビアとともにユーゴスラヴィア連邦に残った(新ユーゴスラヴィア連邦)。その後、2003年には連邦制は解体し、セルビア=モンテネグロという国家連合を形成したが、2006年、それからも分離独立した。

 ユーゴスラヴィア連邦はティトーの指導により、ソ連とは一線を画して独自の社会主義と非同盟政策を採ったので、他の東欧社会主義国に比べ、比較的民主的であったが、それでも70年代からは経済の停滞、体制の硬直化が目立ちはじめ、民族の分離独立を求める声が強くなった。

新ユーゴスラヴィア連邦へ

 1989年の東欧革命がユーゴスラヴィアにも及び、1991年にまずスロヴェニアとクロアティアが分離独立を宣言した。しかし、セルビアとモンテネグロは連邦体制の維持を主張し、ユーゴスラヴィア内戦が始まった。モンテネグロは一貫してセルビアと共同歩調をとったが、さらにマケドニアも分離し、セルビアとモンテネグロの二国だけが残り、1992年新ユーゴスラヴィア連邦を構成することになった。 → ユーゴスラヴィアの解体

セルビアとの対立

 新ユーゴスラヴィア連邦を構成したセルビアとモンテネグロであったが、1999年のセルビアのコソヴォ地方でアルバニア系住民が自治を要求し、それを認めないセルビア当局とのコソヴォ紛争が始まると、モンテネグロにはアルバニア系住民が多いため、セルヴィアを非難し、アルバニア人難民を受け入れた。そのため、セルビアとの関係が悪化し、分離を求める声が強くなっておった。

セルビアと分離独立

Montenegro 国旗
モンテネグロの国旗
 セルビアとモンテネグロの対立は、EUの仲介により、2003年には対等な2国の国家連合という形で「セルビア=モンテネグロ」が成立して一応解決した。しかしその時、3年後の国民投票が約束されており、2006年5月に国民投票が実施された。EUは分離独立とEU加盟の条件として、50%以上の投票率と55%以上の賛成という条件を付けたが、投票率86.5%、賛成55.5%で条件をクリアし、6月3日に「モンテネグロ共和国」として独立を宣言、セルビアも承認し、EUおよび国際連合にも加盟した。
 これによってユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を構成していた共和国はすべて単独の主権国家となり、ユーゴスラヴィア連邦は完全に消滅した。
 なお、国号は、翌2007年に「共和国」をはずし、「モンテネグロ」となった。ただし共和制国家であることに変わりはない。モンテネグロ人は公用語の自国語で「ツルナゴーラ」と称している。意味はモンテネグロと同じく「黒い山」。 → 戦後のバルカン諸国

NewS 102年前の日本への宣戦布告、取消<>

(引用)モンテネグロが独立後日本と交戦状態に?―モンテネグロ共和国が6月3日に行った国家連合セルビア・モンテネグロからの独立宣言を前に、日本政府はあらためて新独立国と「戦争状態」に陥らないことを確認した。心配の原因は、モンテネグロが102年前に行った日露戦争での「対日宣戦布告」。独立で問題なることはないと確認され、外交官らは胸をなで下ろしている。
 1904年に始まった日露戦争で、当時王国だったモンテネグロは義勇兵がロシア側で参戦。ロシアと友好的であったニコラ1世は日本に「宣戦布告」したとされる。日露間では翌年、講和条約(ポーツマス条約)がむすばれたが、モンテネグロ王国は加わらないまま、第一次世界大戦後の1918年、旧ユーゴスラヴィアの前身の王国の一部となり消滅した。
 この経緯は、モンテネグロがかつてセルビアとは異なる歴史を持つ独立国であったことを示すものとして、今も市民に広く知られている。後に日本と国交をむすんだ旧ユーゴは問題にしなかったが、ベオグラードの日本大使館は今回、88年ぶりの独立が決まった先月21日の国民投票を前に、あらためてモンテネグロ共和国に「宣戦布告」の存否を問い合わせた。公文書館でも、公式文書などの記録は見つからなかったという。結局、口頭だけの「宣戦布告」で、国家としての正式なものではなかったとの結論に。
 モンテネグロ共和国のブラホビッチ外相も朝日新聞記者に「問題にすることはない」と断言。「日本がすぐに国家承認すれば、宣戦布告はまったくなかったことにする」と笑った。<朝日新聞 2006.6.5 記事>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交
第14章2節 エ.列強の二極分化とバルカン危機
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
書籍案内

千田善
『ユーゴ紛争-多民族・モザイク国家の悲劇』
1993 講談社現代新書