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スロヴェニア人/スロヴェニア

南スラヴ人の一系統。早くからキリスト教カトリックを受容したが、国家形成は遅れ、長く神聖ローマ帝国の支配下にあった。19世紀に民族的自覚が高まった。

 スラヴ人の中で、セルビア人やクロアティア人と同じく南スラヴ人の一派。最も北西よりに定住したので、ゲルマン諸国(フランク王国→東フランク→ドイツ)の影響と支配を受け、宗教もローマ=カトリックを受容した。しかし、同じ南スラヴ系のセルビア人・クロアティア人が中世において自らの国家を形成したのに対して、スロヴェニア人は歴史上自らの国家を持つことができなかった。
注意 スロヴァキアとは違う スロヴェニア Slovenia と間違いやすい地名、民族名にスロヴァキア Slovakia があるので注意すること。スロヴァキア人はチェック人(チェコ人)と同じ西スラヴ人系でチェコスロヴァキア共和国として連邦を構成していたが、1993年に連邦を解消しスロヴァキア共和国となっている。また、似たような地名にスラヴォニアがあるが、こちらはクロアティアの東部地域を指している。 → スロヴェニア独立・現在のスロヴェニア

カトリックの受容

 6世紀後半、サヴァ川上流及びその周辺に定住し、8世紀にはフランク王国の支配を受け、カール大帝の時代にローマ=カトリックを受容して西方教会の勢力下に置かれた。カトリックの布教活動はドイツ人による植民活動をともなっていたので、スロヴェニアにはドイツ人の影響が増大していった。
 10世紀中葉、神聖ローマ帝国が形成されると、スロヴェニア人の地域はその支配を受け、さらにドイツ化が進められた。にもかかわらずスロヴェニア人がこの時期に自らの民族性を維持できたのは、カトリック聖職者が活発な啓蒙活動を展開したためと考えられる。13世紀後半、ハプスブルク家から神聖ローマ帝国皇帝が選出されるようになると、スロヴェニアにもハプスブルク家の支配が及び、第一次世界大戦まで継続する。

民族的自覚の高まり

 16世紀の宗教改革の時期に、中心都市リュブリャナ(ドイツ名ライバッハ)を中心としたクライン地方ではカトリック司祭によってスロヴェニア語の使用が奨励され、19世紀に入るとスロヴェニア語の歴史書や文法書が作られた。1809~13年はスロヴェニア人居住地はクロアティア、ダルマチアとともにナポレオンの統治する「イリリア諸州」に組み入れられ、スロヴェニア語も公用語とされたため民族意識が一掃強まった。またナポレオン支配のもとで自由と平等の理念も植え付けられた。1848年革命では、統一スロヴェニアの自治が初めて要求として掲げられた。この要求はハプスブルク帝国によって退けられたが、民族意識と居住地域の統合が最大の関心事となっていく。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書 1996 p.18-20>

スロヴェニアの独立

第一次世界大戦後に南スラブ系民族が作ったセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後にユーゴスラヴィア王国となる)に加わる。第二次世界大戦ではドイツの侵攻を受けるが、戦後の社会主義国ユーゴスラヴィア連邦に加わる。しかしセルビアとの民族的な対立が次第に強まり、ティトーの死後の1991年に分離独立を宣言。セルビアとの激しい内戦の結果、1993年に停戦した。

Slovenia
スロヴェニアの位置。彩色部分が旧ユーゴスラヴィア連邦。
 スロヴェニア人は南スラヴ人に属し、ローマカトリックを受容したが、中世においては国家を形成することなく、1282年以来、ハプスブルク帝国の支配下に組み入れられていた。

ユーゴスラヴィア連邦の一部を形成

 第一次世界大戦後に成立したセルブ=クロアート=スロヴェーン王国、それを継承した1929年からのユーゴスラヴィア王国のいわゆる「第一のユーゴ」でスロヴェニア人は一定のまとまりをもって自治を行うようになったが、明確に政治的単位として一体化したのは、第二次世界大戦後の社会主義国ユーゴスラヴィア連邦、いわゆる「第二のユーゴ」を構成する一共和国としてであった。
 ユーゴスラヴィアの建国を指導したティトーは父はクロアティア人で母はスロヴェニア人であった。

民族分離運動の始まり

 ユーゴスラヴィア連邦の中でのスロヴァキアの特殊な位置は、最も北部にあることだけではなく、人口の90%以上がスロヴァキア人で占められていたことと、経済的に最も豊で先進的であったことである。88年の統計で、一人あたりの国民総生産は6129ドルで連邦第一位、最も貧しいのコソヴォ自治州の約8倍に上っていた。連邦政府がスロヴェニアの経済主権を制限するのではないかという危惧が、民族主義を表面化させ、スロヴェニア語とセルビア・クロアティア語の違いもあって次第に感情的な対立となっていった。スロヴァニア人は自らをヨーロッパに属していると意識しており、他のユーゴスラヴィア連邦諸国に対しては「南の奴ら」という蔑視の言葉が言葉がよく聞かれるようになった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.147,149>

スロヴェニアの独立

 1989年の東欧革命の影響はスロヴェニアにも及び、共産主義者同盟の中にも、複数政党制・自由選挙、そして連邦制を解体してよりゆるやかな国家連合体に移行しようとする意見が出てきて、翌90年の同盟大会が決裂、それを受けて1991年にクロアティアと共に独立を宣言するに至った。
 ユーゴスラヴィア連邦政府はそれを承認せず、連邦軍と共和国軍が国境警備問題で衝突して、ユーゴスラヴィア内戦に突入した。この戦争は10日戦争と言われて、共和国軍の実力を軽視していた連邦軍が簡単に敗北し、スロヴェニアの独立は達成され、内戦の舞台は隣のクロアティア、さらにボスニア内戦に移った。

現在のスロヴェニア

Slovenia 国旗
スロヴェニアの国旗
 面積は四国とほぼ同じく約2万平方km、人口は約200万、首都はリュブリアナ。宗教はカトリックで言語はスロヴェニア語。1991年の独立時の戦争の痛手も少なく、社会主義経済から自由主義経済に移行を遂げ、政治的にも議会制民主主義が確立した。そのような安定を背景に、旧ユーゴスラヴィア連邦諸国の中では最も早く、2004年にEU加盟を実現させた。また同年にはNATOにも加盟、2010年にはOECDにも参加した。

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柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書