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第1次国共合作

1924年に中国で成立した国民党と共産党の協力関係。孫文の主導により実現し、軍閥政府との戦いを進めたが、1927年の蒋介石による上海クーデターで共産党勢力が排除され、破綻した。

 国共合作とは、中華民国において、軍閥が抗争して統一が取れず、帝国主義列強の侵略によって中国民族の存立が危ぶまれる中、本来的には結党理念、支持基盤が全く違う中国国民党と中国共産党の二党が、民族の独立と統一を守るという一点で協力し合ったことで、中国近現代史の過程でも最も重要な動きである。20世紀にヨーロッパでもみられた、帝国主義とファシズムに抵抗する勢力が統一して戦おうとする民族統一戦線のアジアにおける動きと言うことができる。時期的には1924年に成立し、27年に決裂した第1次国共合作と、1937年に成立し46年に決裂した第2次国共合作がある。

国共合作の第1次と第2次の概略

  • 第1次国共合作 1924年に中国国民党孫文がソ連の働きかけを受けて中国共産党との連繋に踏み切り、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げ、国民党への共産党員の加入を認める形で成立した。それによって北京の軍閥政権を打倒、列強の植民地支配に対し中国の統一と独立を図った。しかし翌年、孫文が病死、国民党の実権を握った蔣介石は北京軍閥打倒を目指し北伐を開始したが、その進行中の1927年、上海クーデターによって共産党を排除し、国共合作は決裂した。その後、軍閥政権打倒という目標はほぼ達成されたが、国共分裂によって内戦に突入、1930年代の日本の侵略を許すこととなった。
  • 第2次国共合作 1937年~45年の第2次国共合作は、1931年の満州事変によって本格化した日本帝国主義の侵略と戦うために、36年の西安事件を機に準備され、1367年の日中戦争の勃発によって成立した。第1次と異なり、二党はそれぞれ別個な組織と軍のまま、共同して日本軍に当たることによって日本軍に勝利することができた。大戦後は両党の話し合いに失敗、再び内戦となり、1949年の共産党の勝利、中華人民共和国の成立となる。いずれも中国近現代史の最も重要な動きであったといえる。

第一次国共合作までの動き

中国のナショナリズムの高揚 ワシントン体制のもとで中国の門戸開放がはかられた結果、外国資本の流入が進み、中国の民族資本を圧迫し、各地で労働運動、農民運動が激しくなってきた。五・四運動以後に中国ナショナリズムの高揚が続いたが、北京の軍閥政権は依然として国民生活を顧みず、帝国主義勢力と結んで抗争に明け暮れていた。中国国民党を率いる孫文は、ブルジョア民主主義の立場であったが、1921年コミンテルンの使節マーリンと会談し反軍閥・反帝国主義を掲げる中国共産党との共同戦線に傾いていった。
コミンテルンの働きかけ 1922年には上海で李大釗陳独秀と接触、23年1月にソ連代表ヨッフェとともに「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全な独立にあり、ソ連はそれに対して熱烈な共感をもって援助する」という共同声明を発表した。孫文は広東にソ連から政治顧問ボロディンらを迎え、共産党との連係を進める。共産党も23年、コミンテルンの指示で国民党との「合作」を決定し、全共産党員が個人の資格で国民党に加入することにした。

1924年、中国国民党一全大会

 孫文は、1924年1月、中国国民党一全大会広州で開催し、共産党員の加入を認める改組(国民党改組)を行い、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げて国共合作が成立した。この段階から中国革命は新たな国民国家の建設を掲げた、「国民革命」と言われるようになる。
 第1次国共合作は、国民党が共産党を吸収するという形でおこなわれ、新たな国民党役員の中に共産党員が党籍を持ったまま加わった。中央委員24名中、李大釗ら3名、同候補17名中、毛沢東ら7名が共産党員であった。また国民革命の中核となる革命軍の幹部を養成するために黄埔軍官学校を設立、校長は国民党の蔣介石、政治部副主任に共産党の周恩来が就任した。

孫文の北上

 北京の軍閥政府、直隷派の曹錕(そうこん)の武力統治に反発した奉天派の張作霖らが戦争を仕掛けて第2次奉直戦争が起こっていたが、直隷派の馮玉祥が突如反旗を翻して北京を占領、直隷派は一掃された。臨時執政となった段祺瑞は、広東政府の孫文に北上を要請、孫文も当時全く機能していなかった議会に代わって、真に民意を反映した国民会議を樹立し、民族の独立と民衆の平等という国民革命の目的を実現するために、11月10日「北上宣言」をおこない、12月4日に北京に到着、国民会議開催に着手した。このとき、北京に入る前に日本に来た孫文は、神戸で演説し、日本人に訴えている。

孫文の死と運動の昂揚

 しかし孫文は翌1925年3月、病気が悪化して死去し、国民議会の発足はならなかったが、国共合作は維持され、中国の各地で反帝国主義・反軍閥の動きが活発になり、同年5月には上海の日本人経営の紡績工場のストライキから五・三〇運動が起こった。全国的な民族運動が最も昂揚する中、北京の段祺瑞政府に対する不満は益々強まり、一地方政権に過ぎなかった広東政府への期待が高まる中、国民党が直接掌握する国民政府が広東に成立した。国民政府は、孫文の遺志を継ぐ汪兆銘(汪精衛)が首席となったが、そのころから、国民党内部でも、ブルジョワジーと結んで共産党勢力を排除しようという動きも強まった。

北伐の開始

 右派と左派の対立は次第に深刻になったが、その中から台頭したのが国民革命軍の指揮権をにぎった蔣介石であった。蒋介石は1926年3月には、国民革命軍の主力艦であった中山艦を共産党員がのとったという口実を設けて武装解除するという中山艦事件を起こし、さらに二重党籍を持つものを幹部から排除するなど、共産党排除の姿勢を強めた。毛沢東などはこのとき党幹部を辞任した。
 1926年7月、国民革命軍総司令官蒋介石は「北伐宣言」をおこない、全軍(約10万)を動員、「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ことをめざし、北上を開始した。北伐軍は各地で軍閥勢力を倒しながら進撃し、翌27年3月、上海に入った。民衆は各地で蜂起し、国民革命軍を歓迎した。上海で共産党員の周恩来が指導してストライキが発生し、3月21日には武装した労働者が軍閥軍を一掃した。

第1次国共合作の危機

 北伐の侵攻に伴い、広東の国民政府は、長江中流の武漢に移り、武漢政府となったが、政府部内には依然として共産党勢力も強かった。共産党勢力を含んだ国民革命軍が長江流域を掌握すると、イギリスをはじめとする列強は深刻な脅威と感じるようになっていたが、同時に上海などの中国人民族資本家は、共産主義革命への転化を恐れるようになった。1927年3月には、南京で市民・労働者が外国領事館を襲撃、報復のためイギリス・アメリカの軍艦が南京に砲撃を加えるという南京事件が起こった。

上海クーデター

 1927年3月26日、蒋介石が上海に入ると、浙江財閥の宋家をはじめとする資本家は、ストライキによって上海の貿易が途絶する怖れがあるので共産党勢力を排除し、早期に安定を図ることを要請した。ついに4月12日、蔣介石は上海クーデターといわれる国民政府からの共産党の排除に踏み切った。上海では労働者の武装組織の武装解除をおこない、抗議に集まった労働者・市民のデモ隊に発砲、衝突は3日間に及び、多数の死傷者が出た。武漢政府はなおも国共合作を維持し、蒋介石を除名したが、蒋介石はすかさず独自の南京国民政府を樹立、ここに第1次国共合作は分裂して、中国は武漢政府と南京政府の二つの政府が存在することとなった。
 これによって中国の民族統一戦線は崩壊し、内戦が継続されることになるが、20年代末から30年代にかけての内戦の対立軸は、それまでの北京軍閥政府対国民党に代わって、国民政府国民党対共産党へと転化することとなった。また、中国における民族統一戦線の崩壊は、ソ連共産党・コミンテルンの統一戦線理論の破綻として捉えられ、世界革命をめぐる内部対立を呼び起こすこととなった。

ソ連の中国政策

ソ連共産党・コミンテルンのなかに、中国革命に対する指導方針を巡り、スターリンとトロツキーの間で対立があった。

 この時期のソ連は、1924年にレーニンが死去し、スターリンとトロツキーの激しい路線対立が始まった時期であった。その対立は、コミンテルンの中国政策にも持ち込まれ、スターリンは中国国民党との第1次国共合作を推進することを指導し、トロツキーは中国国民党は反動的なブルジョア勢力であるからそれと決別して労働者農民のソビエト建設を主張していた。スターリンの主張が通りコミンテルンはさらに国民党への支援を強めたが、孫文死後の国民政府の実権を握った蔣介石による上海クーデターで大きな犠牲を出すこととなった。

トロツキー、スターリンの中国政策を批判

(引用)中国に対するエピゴーネン(スターリン等)たちの指導は、ポリシェヴィズムのあらゆる伝統を踏みにじったものであった。中国共産党は、その意志に反して、ブルジョア政党である国民党に加入させられ、その軍事的規律に服従させられた。ソヴィエトの創設は禁止された。また、中国共産党員は、土地革命を抑え、ブルジョアジーの許可なくして労働者を武装させないょぅに勧告された。蔣介石が上海の労働者を粉砕し、権力を軍閥の手に集中するよりもずっと前に、われわれはこのような結末が避けられないことを警告していた。私は、一九二五年から共産党員を中国国民党から脱退させるよう要求していた。スターリン=ブハーリンの政策は、革命の粉砕を準備し、それを容易にしたばかりでなく、国家機関の弾圧によって、われわれの批判から蔣介石の反革命活動を守った。一九二七年四月に、スターリンは、クレムリンの円柱の広間での党の集会であいかわらず蔣介石と連合する政策を擁護し、蔣介石を信頼するよう呼びかけた。それから五、六日後に、蔣介石は上海の労働者と中国共産党を血の海に沈めたのである。……だが、何百万人の人々にとって決定的意味をもっているのは、予測ではなく、中国プロレタリアートが粉砕されたという事実そのものである。一九二三年のドイツ革命の敗北、一九二六年のイギリスのゼネストの挫折、こうしたあとに起こつた中国におけるこの新しい敗北は、国際革命に対する大衆の失望を強めるだけかもしれない。そして、この失望こそスターリンの一国改良主義政策の基本的な心理的源泉として役立っているのである。<トロツキー『わが生涯』下 p.440 岩波文庫>
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ノートの参照
第15章3節 ウ.国民党と共産党
書籍案内

小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書

藤村久雄
『革命家 孫文
―革命いまだ成らず』
1994 中公新書

菊池秀明
『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史 10
2005 講談社 

横山宏章
『中華民国』
1997 中公新書

石川禎浩
『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史3
2010 岩波新書

トロツキー/志田昇訳
『わが生涯』下
岩波文庫